名作と呼ばれるコンテンツにはどのような特徴があるのか。関西大学文学部心理学専修の石津智大教授は「1995年に放送されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』では、セリフも動きもないシーンが1分以上続いた回が話題を呼んだ。現代のエンタメは曖昧さを感じさせる余白がなくなっており、それが心の動きの幅を狭めている」という――。

※石津智大『泣ける消費 人はモノではなく「感情」を買っている』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。


テレビのリモコンを操作する人の手

写真=iStock.com/Rainer Puster

※写真はイメージです



エヴァンゲリオンの「有名なシーン」が伝えたもの

安心の中で心を動かすことが求められる今だからこそ、もう一つ、考えておきたいことがあります。


それは、心の動きの「幅」についてです。


近年は作品に曖昧さを感じさせる余白がなくなっていて、それが心の動きの幅を狭めているとわたしは考えています。


たとえば、Jポップの曲の長さが、どんどん短くなっているそうです。


インタールード(間奏)がなくなっているし、昔は曲の構成にAメロ、Bメロというパターンがありましたが、それも崩れてきている。


こんな例もあります。


1995年に放送された最初のテレビシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明監督)に1分ほど映像が止まってしまう有名なシーンがあります。


主人公が友達だと思っていた人が実は「使徒」という敵だったことがわかり、主人公はその相手を殺さないといけなくなった。非常に葛藤するけれど主人公は人型決戦兵器エヴァンゲリオンに乗って、相手を掴んで握りつぶす。そのシーンが1分以上続く。その間、セリフも動きも一切ありません。


この静止の時間で、葛藤や怒り、そしてそれが収束していくまでの心の動きを感じさせたかったのでしょう。


『エヴァンゲリオン』30周年特設サイトより



庵野監督が語った“動かない表現”の限界

その後『エヴァンゲリオン』は映画化され、わたしは映画の完成を伝える庵野監督のインタビュー映像を観ました。すると監督曰く、もうテレビ版のときのような、1分以上静止させる表現方法は使えない。


なぜなら視聴者がついてこないからだと言うのです。


何も動かない場面があれば、動画を早送りして観ることに慣れている今の視聴者には飽きられてしまう。


飽きられては余白を作る意味がない。制作側は、鑑賞者が余白に込められた葛藤を感じることを前提として話を作っていくので、余白とは情報がないムダなものとして無視されると、伝えたいことが伝わらないまま話が進んでしまいます。


そんなふうに作品の中で、視聴者が立ち止まれるスキがなくなっている。


そういった作品が増えているうえに、サブスクでは面白そうな作品がいくらでもある。そんななかで消費者に選んでもらうには、曖昧さを排除し限られた時間内で効率よく泣いたり笑ったりしてもらう必要がある。


このようにして静寂や余白のなくなっていくエンタメ業界を、わたしは少し憂えているのです。


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