【チ。 ―地球の運動について―】第1話〜23話(三章まで)がアルベルトの妄想説が納得すぎる件。最終回・第25話のラストから逆算の物語【ラファウの正体】【そもそも創作だった】【美しさの追求・解答】
第8集・第二十五話最終回。不完全燃焼の中完結した人向け。「妄想説」が正しければ全てつながる。
地動説を証明するために自らの信念と命を懸けた者たちの物語を描いた『チ。 ―地球の運動について―』TVアニメがNHK総合テレビにて2024年10月5日(土)午後11時45分から放送スタート!初回は1話、2話連続放送予定!
Netflixでの世界配信、ABEMAでの無料配信も決定!
本PVでは、OP 曲・主題歌サカナクション「怪獣」、ED 曲ヨルシカ「アポリア」の楽曲一部を初披露!
【原作】
魚豊「チ。 ―地球の運動について―」
(小学館「ビッグスピリッツコミックス」刊)
【キャスト】
ラファウ:坂本真綾
ノヴァク:津田健次郎
フベルト:速水奨
オクジー:小西克幸
バデーニ:中村悠一
ヨレンタ:仁見紗綾
【スタッフ】
監督:清水健一
シリーズ構成:入江信吾
キャラクターデザイン:筱雅律
音楽:牛尾憲輔
音響監督:小泉紀介
オープニング曲・主題歌:サカナクション「怪獣」
エンディング曲:ヨルシカ「アポリア」
アニメーション制作:マッドハウス
【公式HP】
anime-chi.jp
【公式X】
@chikyu_chi
©魚豊/小学館/チ。 ―地球の運動について—製作委員会

33 Comments
アルベルトの妄想説は、アルベルトの伝記から作者が妄想し、妄想のアルベルトが妄想し、そのまた妄想の人々が地動説を妄想しているというメタ構造になっているから面白い。
それでも、P王国とポーランド王国は同じ世界線で、あくまでも登場人物たちの頑張りで虚構の時代を超越し現実の世界(真理)へとたどり着いたのだという直感を私は信じる。という妄想はいかがでしょう?
最初のラファウ〜ドゥラカの物語まででは35年くらい経過している一方で、アルベルトが10歳前後で出会った青年ラファウは20歳前後。そこからアルベルトが大学へ行く頃までは10年程しか経っていない。
地動説が世に出るまでの時間の経過も違いますが、妄想の中での時間のズレ?もしくは世界線の違いなのでしょうか?
子供の頃出会ってトラウマとなったラファウ先生、教会での出会い、意味のわからない伝書鳩の手紙
全然関係もなく重なることもなかった一つ一つをアルベルトがこれらを繋いで無意識のうちに頭の中で瞬間的に、1話からデュラカまでのフィクションを『?』時に妄想したと言うことでしょうか。
尊敬していたけど人間的な欠落のあった先生に潔癖性を求めたり、子供の頃好きだったけど悲しいことの引き金になった夜空にまた思いを寄せようとしたり、美しい星達に美しいだけでなく強さや悲劇性を求めたり、神父さんから聞いた深くは知らないけど悲しい話に、興味を持ったもの達を知らないうちにそれらを軸に物語が一つの連鎖して繋がるように自分の心の中に引っかかったものを無意識に補完して繋いだ物語を妄想したのでしょうか。
だとしたら私はすごく納得して、この作品の意味が昇華できるようになったと思います。
P王国とポーランド王国の遠景も違うし
この説がいいかもしれない
神様(作者)は説明しないだろうから、どの説も有りだけどね
個人的には妄想説ではバデーニが楕円軌道を発見した部分がつじつまが合わないと思っています。(時代的にも)私的には1~3章までは「かもしれない」と言う存在であり「シュレディンガーの猫」のような存在として捉えています。空想と現実と世界を分けてしまうのには勿体無いですしね。空想と現実が交差する世界観が「チ」であり数学者や哲学者はこうした思考実験は結構やるみたいですね。青年ラファウもラファウみたいな人と言う別人でお話にするとノヴァクと逆の立場になった時、と言うのが伝わり難いと思います。別人であり同一人物でもある(だが同じ記憶を持っている訳では無い)少年ラファウも青年ラファウも「かも知れない存在」なので何でもありだと思います。3章までの登場人物と物語はあったかもしれないし無かったかも知れない。この二つは人の思考の中ではシュレディンガーの猫のように両方の状態のまま両立する。漫画という媒体の中では成立するのだと思いました。
解釈は人それぞれ、が魚豊先生の意図かなとは思いますが…。
史実に残っていないあんなことやこんなことが繋がって、史実に残っている人のタウマゼインになった、かもしれない、という解釈をしたいなと思ってます。その方がロマンがあるので。ラファウは迷いなき知の探求者の象徴のような存在として納得してます。
哲学の有識者はあぁこの人のコレを使ったのねというのがすんなり分かるみたいですね。
若かりし頃哲学に興味を持った時期がありましたが、また本を読んでみようと思ってます。
青年ラファウはニーチェの永劫回帰を表した存在だと思います。
youtube人生の方程式さんの考察が1番しっくりきました。
辻褄を合わせるためだけなら、この説で説明は出来ると思いますし、
考え方としては非常に面白いなと思いました。
ただし、作中でアルベルトが妄想したというような根拠は全く示されていないので、
あくまで視聴者側の仮説の一つかなと思います。
1章から3章を別の世界線と捉えず、
最初から最後まで全てフィクションの中で繋がっていると捉える方が、
無難な解釈かなと思うんですが🤔
1章のラファウも最終話のラファウ同様に危うさがあり、
自らの命を絶つという過ちを犯しているので、不完全だと思います。
だから最終章でも1章のラファウを礼賛すべき悲劇のヒーローで終わらせないために、
再登場させてるんではないでしょうか!?
最終章のラファウは誰でも同様に危うい存在になりうるという、
象徴的な意味合いであの姿で登場させているに過ぎないと思います。
サカナクション怪獣の、
「未来から過去、順々に食べる、何十回もかみ潰し溶けたなら飲もう」がヒントになりそう。
アルベルトだけでなく読者、視聴者にタウマゼインを感じてもらうことが意図かな·····?このマンガの着地点の素晴らしさもそこにありそう
自分の中では司祭の問いに対するアルベルト教授の回答ということで結論づいてます。
ラファウであったほうが「仮にこうだった場合」としての説得力として強いからラファウが出てきただけでぶっちゃけ比喩的な意味合いに近いのではと思う
実際はラファウ先生はそのラファウではないのでは
歴史上で地動説が提唱されたのは、アルベルトからコペルニクスに「?」のバトンを繋いだからで、
アルベルトに「?」を繋いだのは誰か??ってところのフィクションをマンガにしたのが『チ。』で、その主人公がラファウというストーリーだったのか!と…最終回で自分的には納得しました。
子供の頃に地動説(感動)に出逢って死んだラファウと、地動説に出逢わずに大人になったラファウの2つの世界線の物語が重なり合った瞬間が、アルベルトに「?」のバトンが渡った瞬間だったのだと思います。この瞬間が全てで、辻褄とか必要なくて、アルベルトも何も知らないという方が自分にはしっくり来ます。どちらのラファウも一番大切な「?」だけを繋いだ…というのも、切ないながら感動しました。
原作未読なので、毎回このチャンネルでの考察有り難かったです。感動もより深く感じることができました!ありがとうございました。
あくまでも1-3章と最終話は別世界の話
だけど、アルベルトの世界に最後ドゥラカからの伝書鳩の手紙が届いた。
内容は「ポトツキに1割。」
この内容はラファウ→オクジー→バデーニ→ヨレンタ→ドゥラカを介して、アルベルトに到達した。
まるで恒星と惑星のように、別で動いてた世界線が最後に交わったのかなと思いました。
個人的には逆の方が可能性高い気がしますね
シンプルに最終章のラファウだけがアルベルトの回想(妄想)なので
加えてアルベルトは「先生」としか言ってないのでメタ的にも作者がラファウの名前と姿を与えてるだけかもしれません
アニメ慣れした日本の解説者や考察班が、パラレルワールドという「好都合な神秘」に逃げて思考停止する人が多い感じ
対して海外勢がひたすら現実に繋ぎ留めようとしてるレスがあるのが面白い
チ。の物語中のC教と主人公たちをなぞらえるようで
自分が腑に落ちた考察は
青年のラファウは毒を飲んで確実に死んだ
大人家庭教師ラファウは同性同名の容姿は異なる別人(この作品を観てる視聴者にだけ最初の主人公ラファウ容姿で描かれてる。アルベルトや家庭教師ラファウと関わった人物たちの目には同姓同名の別の容姿のラファウが映る。)
青年のラファウはこのチ。って作品の最初の主人公で地動説に命をかけた最初の種火
自分の命を落としてでも次の人に地動説を繋げた青年ラファウ。
人を刺してまで燃やされるはずだった宇宙の根本から変えてしまう資料を守った家庭教師ラファウ。
やり方は違うけど2人とも知の探求があってそれでいて同性同盟だから。だから視聴者には知の化身としてラファウとして描かれているんだと思った。
作者が意図的に仕掛けた視点のズレで作者を見てる視聴者に混乱が起こったと思ってる。
あくまで自分はこの解釈が1番腑に落ちただけで色々な解釈があってもいいと思う。
ラファウが服毒自殺したように見せかけて瀕死の状態が死んだように見える毒をのんで異端認定される前に父親の元に返され火葬されること無く違う人物として離れた地域で地動説の動向を見ながら暮らしていてそれを息子が受け継ぎ家庭教師となって伝えていたというのはどうだろうか
読者の考察なんかより俺は作者が考えた真実を知りたいのです
哲学は例え話が多く表裏一体なのかなと凄いアニメ!
ラファウ先生は最初のラファウとは別人で全部の辻褄が合う。
・教会のお悩み相談BOXで、牧師が過去の同僚の大きな過ちの話を打ち明けた話(ヨレンタを逃したシモンの事)
・ポトツキ宛ての手紙が届いたこと。
この二つがチ。の世界は全て繋がっていると感じさせる。
ラファウ先生だけがノイズなんだけど、アルベルトの昔話を聞いて、牧師が想像したラファウ先生像を、我々は見ているのかもしれない。
自分も妄想説に一票。
ただ、アルベルト君なりにあの手紙が届いた経緯について調べたのではないかと考えています。
いろいろ吹っ切れた彼が「?」をそのままにするとは思えないからね。
その結果ドゥラカ、オクジー、ラファウという三名の人物にたどり着きそこから妄想していったと…
だからラファウ少年はあの容姿にしかならなかったアルベルト少年に一番影響を与えた人物だからね。
単純にアルベルトが過去のトラウマを克服するために創作した架空の物語が三章までと考えています。
そこには実際に彼が出会った人物(ラファウ、告解室の牧師、会の人々)街で小耳に
挟んだ噂話(謎の手紙、出版物)受け継がれる研究資料などがモチーフとして投影されてる。
アルベルトの妄想だとすると綺麗に理解できる点がある一方で、「どのタイミングの妄想か」という問題がある気がして、例えば幼少期からパン屋時代のアルベルトの妄想だとすると、最後にポトツキへの手紙と交差したときにアルベルトのリアクションは「?」じゃなくて「!?」になっちゃいます。自分の妄想の登場人物と著作物と遭遇するわけですから。しかし最終話以降の妄想だとすると空を見上げるアルベルトに歴代主人公が空を見上げるシーンが重なることが不自然な気がします。それ以前に妄想していたのであれば自然ですが。そして個人的には憑き物が落ちたアルベルトが物語を妄想すること自体にちょっと違和感を感じます。
個人的には4部主人公からコペルニクスを経て、キリスト教による地動説の迫害や異端として処刑される修道士のブルーノやガリレオと1〜3の流れを踏襲し続いてくわけで、1〜3と4が繋がってるって解釈は美しくないかな
ラファウが登場したのもその為だと思ってる(物語としてのラファウと現実のラファウ)。ただそれだとあまりにも1〜3のラストが味気ないから、ポトツキに1割の手紙で読者へのサービスを残した
無秩序な情報に線を引く、そうすると新しいものが見えてくる。こんな事が起こせるなんて僕らの理性はどうなってるんだろうね。
まさに考察してる僕らで面白い
妄想説は美しくないですね
「天球の回転について」コペルニクス著の出版経緯とか知ると1から23話てコペルニクスの生涯を元に作られた話という気がするわ
「アルベルトの創作」説を取り入れると興味深いのは…
●通常物語は1話から最終話へ因果の方向が向かっているが(回想という特殊状況を除けば)この「チ。」においては24・25話→1〜23話というように「逆行」している事になる。このキーワードはこの物語においては特別な意味を持つ。
●「聖書」は神が使徒などに書かせたという体裁を取ってるようですが、1〜23話を「地球の運動について」というバイブルと見ると
、あるいは「チ。」丸ごとをその物語世界の創造主=創作者=魚豊がアルベルトを通して書かせた。という意味づけもできる。
さて、このバイブルの解釈を色々してみる我々は何者でしょう?w
青年ラファウが出てきた時点で作者は何を伝えたいのだろうかとそれだけ考えてきました
アルベルトの妄想説もロマンがあっていいと思います
その場合、アルベルトのしてる事は作者がしてる事とほぼ同じ(実在の人物から逆算してそこに繋がるまでのフィクションを考える)ですから、作者がアルベルトに何を投影したのかまで考えたいですね
最終回見た後にこの動画の考察と同じような見方をしていたので個人的に思ったことを書きます。
1、オクジーとドゥラカは過去のアルベルトの自己投影。
・オクジーは学というものに関心がなく、夜空を見ることも怖がっていた。
→パン屋時代のアルベルトは知識を求めることをくそだといい、星空を見て星座を繋げることを恐れていた。
のちに、二人とも夜空を見ることを怖がらなくなった。
・ドゥラカは神を信じない資本主義的な考え方の持ち主だった。
→パン屋時代のアルベルトは効率的なパンの配合量の計算を行っていた。告解室で神父から「話を聞くにあなたは今、神を失っている」と言われその後話すことで神についての考え方を改める。
2、バデーニの、知識は一部の優秀なものにのみ与えられるべきだという知識の独占という考え方は
自分の持っている資料をラファウの要請・説得に応えずに渡さなかったアルベルトの父親の考え方と似通っている。
3、知識の情報を巡って殺害など暴力的な行為がラファウ本人の中で正当化されていることから、
考え方の対立によって過度な暴力もおこり得るのだということ。
4、大学の学長がノヴァクのイメージに寄っている。
アルベルトが入学書類を渡したシーンの学長のしゃべり方の投げやり具合、まあいいけど、好きにして などの言葉と内容がノヴァクを想起させる。
大学の学長=当時の学問の主流派の象徴→現在の定説を守る存在 として学長をノヴァクのイメージに寄せたか?
5、オクジーの同僚のグラスは、自分の命をかけてもオクジーが知識を持つことへ導いてくれた。
→パン屋のおじさんと類似。パン屋のおじさんはアリトー(役割)をアルベルトに説いて大学へ行くことを勧めた。
グラスの役割はオクジーが学ぶきっかけを作ったこと。パン屋のおじさんの役割はアルベルトを大学に行かせたこと。
6、「地球の運動について」という本のタイトルについて。
アルベルトはこれを聞いた時に「書き違いかな。運動するのは天球だし」と言っている。
コペルニクスが出版した本のタイトルは「天球の回転について」。
とタイトルの構成も似ている。
7、チ。1話最初に「では何をささげれば~」のナレーションと最終話の神父の同様のセリフ。
これについてアルベルトが考え続けた中でできあがった物語か。
本動画の内容に加えて以上のようなことからアルベルトの創作ストーリーかなと考察していました。
主人公は人では無く継承されていくチ(知)なので、終盤は人がどうとかいう辻褄では無く物語の発端となったラファウを起用しておしゃれに繋げた高度なテクニック。妄想ではないです。
【地球の運動について⊂チ。⊂現実】
というレイヤーになってると思います。
サブタイトルの「地球の運動について」は「完全な創作」であり、アルベルト編に本として登場します。一方、アルベルト編は「あり得たかもしれない創作」であり、これは現実世界の史実に結びつきますが創作も含まれます。で、僕らがこの物語を鑑賞する現実世界はその両方を内包している。「地球の運動について」からアルベルトの「?」が生まれることで「チ。」の物語が生まれ、「チ。」から僕らの「?」が生まれることで歴史に登場しない僕らから何かが生まれるかもしれない。
このレイヤーを軸に考えれば、この物語の続編は「チ。」を読んだ僕らなんです。
魚豊さん「変な嘘をつきたかった」っていってるね(^.^)