今日の話題は
260年間徳川滅亡を願い続けた?毛利氏 江戸時代のその後 をお届けします。

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#日本史の謎 #歴史

43 Comments

  1. 今年はどうしようかって言う奴は吉川を許すかどうかっていう話を聞いたことあるけど…

  2. まにか、振り返れば’うん’納得できるところ大いにありです。今日の地方と中央の関係だけでなく、政治の中央でよく感じるでありました。これはいい解説です、感謝というかスッキリしますね。

  3. 「ん〜〜ん?わざわざUpする事か????」
    関ヶ原で西軍のトップ(秀頼は不参加)に立った
    「毛利が減封&国替えで済んだ」のは感謝するべきだし、実際、幕末迄は徳川に対して頭を下げ続けて居た。
    但し、これは毛利氏以外の西側大名の全てに言える事で
    「わざわざUpする事の無い話ですよね」

  4. 広家は毛利不利と読んでいたかもしれないが結果を知る私からすれば徳川主力37000がいない
    西軍主力の石田隊、宇喜田隊で互角の戦いをしていた。
    広家が動けば勝てていたし輝元も出陣していれば勝てたかも?
    大阪城に籠城していれば夏、冬の陣と違い援軍も見込まれるからなぁ
    立花隊もいるし。
    敗戦後の広家 立場なかったろうなぁ
    それこそ見込み違い
    家康が一枚も二枚も上手

  5. 関ヶ原は小悪党輝元くんの責任かな
    実際のところ毛利を潰すのは現実的じゃなかったんやろなぁ…

  6. 殿、今年は?!いや、まだまだ。の260年の末の倒幕はさぞかし悲願だったんだろな。

  7. 関ヶ原の吉川広家の内通は輝元も知っていたという話もあるようですが…。
    どうでしょう。

  8. 幕府は毛利家をとり潰すチャンスは沢山あったけどそれでも毛利家に気を遣って存続させてたのに

  9. これだけ、関ヶ原の怨みがあれば戊辰戦争の後の幕府側の戦死者も埋葬の扱いが悪かったんだなぁ…やっぱり関ヶ原から始まってたか…

  10. ワイのご先祖は毛利元就公と戦って負け、生かされた。だからワイがいる。

    元就公は高橋家を徹底的に滅ぼしたけど、その家老の血を引くワイのご先祖までは粛正しなかった。暖かさの中に冷酷さも持ってる御方だったみたいですね

    ウチの先祖の3つの家系が毛利家の本陣に指定され、藩主が就任して江戸から御国へ入国する際や御国まわりをする際には必ずご先祖の家に泊まったらしい。

    ワイは末端のそのまた末端だから、詳しい口伝とか知らないけど。

  11. 田布施システムは陰謀論に過ぎないが、関ヶ原でも天下獲りたかった毛利はガチ

  12. 歴史は現在残存している文献や資料等を参考とした現実的な考えになりますが、
    毛利は確実に輝元が原因ですよね。

  13. 明治維新以降の薩長土肥の横暴‼️そして長州の賊人‼️安倍晋三‼️に続く訳さ。明治163年ね。メラメラ燃えるよ。

  14. 長州藩は、関ヶ原を反省し徹底した文書記録主義(すべてをデータベース化)を始めます。このため各藩の中で、長州藩のみGDPが計算できます。この方法は、明治政府にも受け継がれてゆきます。また、江戸期の財政改革の中で、今でいう一般会計と特別会計の仕組みを初めています。これも、明治政府に受け継がれてゆきます。

  15. 桶狭間合戦で義元の首級を取った、『毛利新介』との関連性はないのだろうか⁉︎

  16. 毛利の殿様よりも、家来のほうが徳川に対する恨みが強かったのでは?毛利元就・輝元の側近であった林就長は豊臣秀吉とプライベートで友人としてお付き合いしており、豊臣姓を賜るほどでした。幕末に家老の周布政之助らと共に倒幕派の志士を率いていたのは林就長の子孫である林主税で、豊臣秀吉と親しかった人物の子孫によって徳川の悪政が終焉を迎えたといえます。

  17. 西枕の話は大河ドラマなどで昔からよく聞いたはなしだけど、藩主や家族が江戸詰めだから不敬になってしまうんじゃないかと疑問に思っていました。萩城は防衛に適した立地と考えると悪いことばかりではないですね。

  18. 主に薩摩だが土佐や肥前佐賀など長州の味方をして長崎を握って新しい物を取り入れ四鏡戦や鳥羽伏見で圧勝できたと言う事だね

  19. 関が原に関しては毛利を恨みたい人の方が多そうだけど…

  20. 薩摩と長州くっつけたのは竜馬だけやなくて外国もくっついてたとききますね

  21. ペリー来航のペリーさんが安倍首相に顔が似てるのは、たまたまなのかな?
    徳川家に恨みを持つ人達も多いようだけど、日本国内あちこち旅してみて、一番治安もよく、人々も穏やかで優しい人達が多かった地域の一つが、静岡県ですね。伊豆、伊東辺りは、とても良かったです。
    あとは、岩手県も人が良い。
    鬼の伝承がある地域は、酷いイジメも多いですね、何故か。秋田県の畠山鈴香さんの卒アルが参考になります。AV関係者も多い。余所からきた医者が虐められて一ヶ月で出ていった話も有名ですね。あまり良い印象はないです。

  22. 輝元がじーさま元就の片鱗をもう少し受け継いでいたら、もっと上手く立ち回れたんじゃないかなーと思う。
    防長2カ国に減封された後は目が覚めて国作りに奔走したらしいが、関ヶ原前後のしくじりは凡庸感が半端なくて草。

  23. 長州は260年間ずっと恨んだというのは忠臣蔵と同じで誇張された話で事実ではなく、幕府とは9割は蜜月関係であった。確かに関ヶ原直後ね萩城の築城を見ると幕府に対する徹底抗戦を伺えるが、それ以降の毛利家のポカに対して幕府の毛利に対しての優遇は不思議なくらいである。まず、大阪の陣での数々の失策も改易どころか不問に付されている。また秀元は家光の砥衆となり、幕政に影響力を持ちご三家親藩でも類例のない孫藩の清末藩の立藩に成功している。宗家の登城拒否も不問。長府毛利の刃傷事件も不問。清末藩や徳山藩の短期間でのお家最興などあり得ない優遇をうけている。幕末もよく考えれば力が衰えたと言えども幕府は長州に対する処置が甘すぎる。
    幕府軍と戦う時は流石に関ヶ原の恨みが力の一部になったであろうが、日本の将来を思い募兵であった長州兵は戦っている。幕府を恨んで足を江戸に向けて寝たのは高杉家だけである。また、正月の毛利家の儀式も創作である。明治になって新聞記者がその件を最後の藩主元徳公に質問したら、笑いながら否定している。親敬公の暗君話同様、間違った毛利家が面白おかしく伝わるのはいかがと思う今日この頃。

  24. 家康最大の誤算は毛利と島津を滅亡させなかった事
    家康もあの世でびっくりしただろう

  25. 土佐の武士もそうだったように、国替え制度が問題だったのでは…

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