ゴールデングローブ賞を運営するゴールデングローブ協会に所属する、米LA在住のフィルムメイカー/映画ジャーナリストの小西未来氏が、ハリウッドの最新情報をお届けします。
日本のアニメはアメリカを「制した」のか? 北米興行の数字が語ること
(C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable
賞レースが一段落したこともあって、日本から来た人と会う機会が増えた。その際、必ずといっていいほど話題になるのが日本のアニメの快進撃だ。
昨年9月、「劇場版『鬼滅の刃』無限城編 第一章 猗窩座再来」が北米で週末興収7060万ドル(現在のレートで約109億円)を記録した。アニメ映画としては歴代最高のオープニングで、1999年(米公開/日本公開は98年)の「劇場版 ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」以来、26年ぶりの記録更新だ。翌月には「チェンソーマン レゼ篇」も北米初登場1位を獲得し、コスプレした若い観客が劇場に詰めかける光景がSNSで拡散された。
こうした現象は日本でも盛大に報じられているから、気になるのはあたりまえだ。メジャーリーグでは日本人選手の活躍が目覚ましいが、ハリウッドでも同じようなことが起きていると思っても不思議はない。
だけど、ぼくはこの現象を「日本の勝利」と呼ぶことにためらいを感じている。
なぜかというと、この好成績の背景には、アメリカの映画興行そのものの構造変化があるからだ。アニメが強くなったというよりも、アメリカの映画館が「イベント会場」へと姿を変えつつあり、アニメがその新しい形にフィットしたと見るほうが実態に近いのではないかと思っている。
少し数字を振り返ってみたい。コロナ前の2019年、北米の映画興行収入は約114億ドル(現在のレートで約1兆7700億円)、チケット販売枚数は12億4000万枚に達していた。当時はまだ、ロマンティック・コメディや法廷スリラー、人間ドラマといった中規模の作品が劇場のスクリーンを埋め、日常的に映画館に通う観客がしっかり存在していた。
それが2025年には、興収が約89億ドル(約1兆3800億円)、チケット枚数はおよそ7億8000万枚にまで減っている。コロナ前と比べて、ざっくり4割の観客が映画館に戻っていない計算になる。
この変化をもたらした最大の要因は、配信サービスの浸透だ。劇場公開から配信解禁までの「ウィンドウ」は、コロナ前のおよそ90日から、現在は平均32日にまで短縮された。1カ月ほど待てば自宅のテレビで観られるとわかっていれば、わざわざ劇場に足を運ぶ動機は限られてくる。
こうして、劇場で成立する映画の種類が大きく絞り込まれた。「どうしても公開初週に、大きなスクリーンで、大勢と一緒に観たい」――そう思わせるイベント型の大作だけが集客できる構造になりつつある。映画館が「映画を観に行く場所」から「映画体験に参加する場所」へと変貌したのだ。
そして、この「イベント」の条件を、日本のアニメ作品は見事に満たしている。

(C)藤本タツキ/集英社・MAPPA
「鬼滅の刃」や「チェンソーマン」のファンは、公開前からSNSで情報を共有し、コスプレを準備し、グッズを買い揃え、初日上映をコミュニティの祭典として待ち構える。彼らにとって劇場に行くのは「映画を鑑賞する」行為ではなく、同じ作品を愛する仲間と空間を共有する体験なのだ。北米でZ世代の映画館動員が前年比25%増加しているというデータがあるが、その牽引力の一端をアニメが担っているのは間違いない。
ただし、ここで見落としてはならないことがある。
すべての日本アニメが同じ成功を収めるわけではないのだ。わかりやすい例が「THE FIRST SLAM DUNK」だろう。日本では興行収入157億円を超え、社会現象と呼ぶにふさわしい大ヒットとなった作品だが、北米ではわずか105万ドル(約1億6000万円)にとどまった。日本での成績とは文字通り桁が違う。
理由は明快で、北米には「スラムダンク」を支えるファンコミュニティがほぼ存在しなかった。作品の質がどれだけ高くても、イベントとして機能するための前提――「初日に駆けつけたい」と思うファンの集団――が欠けていれば、劇場に人は集まらない。
つまり、「鬼滅の刃」の7060万ドルは、日本のコンテンツが普遍的にアメリカで受け入れられた証ではなく、特定の作品が持つ北米でのファンダムと、アメリカの映画館の構造変化がかみ合った結果と見るべきではないだろうか。配信プラットフォームを通じてアニメに親しんだ若い世代が、劇場公開を「イベント」として消費する――この循環がうまく回った作品だけが突出した数字を出せるのだ。
と、冷静に分析をしてみたものの、ぼく自身、この現象に深い感慨を覚えずにはいられない。ぼくがLAに来た90年代、日本のアニメは一部のオタクが人目を忍んでひっそりと楽しむものだった。それがいま、普通の若者たちがコスプレして劇場に押しかけ、上映後に興奮を分かち合っている。構造的な追い風があろうとなかろうと、その光景そのものが胸を打つ。
この隙間がいつまで開いているかはわからない。だが、いま目の前で起きている現象を、もうすこし噛みしめていたいと思っている。