米軍から「日本軍機の中で一番やりやすい」と酷評された燕…川崎キ61三式戦闘機飛燕/Warthunderを添えて
イタリアのような流線系のスマートな ボディにドイツ生まれのエンジンを搭載 日本気しからぬその姿はまさにつばメが 飛んでいるかのよう過剰なに頑丈に設計さ れた機体は日本機の最大の弱点と言われる 急高化性能に優れ米軍機にもついていける 数少ない存在これには思わず陸軍産も にっこりと思いきや味方からは飛ぶれる敵 からは日本軍岐の中で1やりやすい期待と 言われる低評価。そのつばめは傑作機なの か打作機なのか。 お分かりいただけただろうか? ああ。 こんにちは。冒頭からいいクソエイムを 見せつけてしまいました。でもこれは パイロット。つまり私に問題があるので あって、この飛行機自体は傑作機とも 言えるとても優秀な飛行機なのです。その 名も川崎木61式戦闘機煙。川崎というと バイクで有名な川崎がありますが、その 川崎が作った戦闘機です。実践投入された 日本軍戦闘機の中では唯一の駅例エンジン でありのフォルムはとてもスマート。0ロ 戦などの他の日本軍とは明らかに要想が 異なり、戦場で相まみえた米軍もイタリア 軍の戦闘機MC202の派生期と認し、 イタリア人男性の名前であるアントニー からとってトニーというコードネームを つけたほどです。米軍はイタリアきと 間違えましたが、その血筋はドイツにあり ます。比が積んでいるエンジンは元を たどればドイツが開発したもの。そんな 背景のあるエンジンに加え機体形状も ドイツのメッサーシミットBF109に似 ていることから和星メッサーと呼ばれる こともありますが機体設計自体は川崎 設計人が独自に行ったものであり共通点は エンジンと平型が装備したMG151機間 法くらいです。 の開発が始まったのは太平洋戦争が始まる 1年前の1940年。陸軍は川崎に対し 一式戦闘機はぶさに変わる戦闘機61の 開発を命じます。開発コンセプトはぶさの ような軽戦闘機よりは運動性に劣るものの 重戦闘機のような重装を施した万能器と いうもの。このため川崎内では軽戦闘機と も銃線機ともつかない と呼ばれていました。木61はその エンジンに液例式の歯40を採用。この歯 40は当時同盟国であったドイツの大村 ベンツ車が開発したDB601Aを川崎が ライセンス生産したものです。 40を採用したことで日本の最大の ウィークポイントであったエンジンの比力 が改善され、1941年12月12日の初 飛行では最大速度時速591kmを記録。 この時期の陸軍戦闘機は軽戦闘機である1 式戦闘機やぶさは時速500km重戦闘機 である2式炭座戦闘機採用前の消期であっ ても時速580kmの最高速度しか出せず らに比べ61ははるかに高速でした。また 機61の主憶はトラス構造をしており重量 が挟む代わりに大変頑丈な構造をしてい ました。そのため時速850kmで大部し ても空中分解しない権労差を誇り日本軍 戦闘機の最大の弱点と言われる急行化性能 に優れていました。これは開発を行った 川崎の設計人すらも予想しなかったほどの 高性能ぶりでありこうして61は1942 年には量産を開始し1943年10月9日 3式戦闘機として正式採用されます。これ までにない優秀な性能を誇ると思われた。 しかしその苦労はここから始まったと言っ てもいいのかもしれません。今回は木61 3式戦闘機煙火を極めつばめを超えろに ついて解説します。 [音楽] 比炎の実践デビューはその出出しから 大きくつまづきます。第14飛行団の第 68によってラバウル方面へ展開したのが 初の実践配備となるのですがこの舞台は 1942年3月に編成されたばかり翌 1943年の年明けから97式戦闘機から 比への機種転換を開始したのですがこの時 比炎はまだ正式採用前という状況期待の 初期不良も完全には解消しきれておらず その上ほとんどの整備兵は液例エンジンを 扱った経験がなかったこともあり機材の 故障が頻発。修理しては故障、修理しては 故障の繰り返しで現場の努力でどうにか 飛ばせる程度にはなったものの出撃予定 時期の3月が迫ってもなおとても戦闘訓練 に移行できていない有り様でした。結局3 月末の段階で基本的な飛行訓練こそ何とか 終えたものの戦闘訓練は1から2回形だけ 行った程度夜間飛行訓練は愚か長距離飛行 訓練や射撃訓練すら全く行っていないと いう状態。こんな状態のまま空母太陽で トラック諸島に輸送され、そこからクーロ でラバウルを目指すことになったのですが 、先発対12期中2期がエンジン不調で 自爆、体調機を含む9期が道中で不自着、 ラバウルに到着できたのは1期のみという 悲惨な結果、さらに高発隊も故障で1期を 喪失し、先発隊高隊合計で登場員喪失3名 、喪失機10期、無事到着できたのは27 期中15期という戦っていないのに壊滅 状態に追い込まれます。その後補充機で なんとか戦力を補充し、1943年7月8 日には実践を開始、主にニューギニア方面 の防衛を担い、P38やB24、そして新 影器のP47を相手に比炎は戦いの空へと 飛び出すことになります。 比炎は格闘線に強い軽戦闘機と一撃離脱に 特化した重戦闘機のどちらともつかない 抽選登機として開発されました。このため 両方の特徴を程よく合わせもっており アスペクト費の大きな長い主憶により高度 性能にも比較的優れていました。その スマートな見た目とは裏腹過剰なまでに 頑丈に作られた機体は時速850kmの ダイブと15Gの旋開を可能にし、卓越し た急行化性能を生かしてP40相手には 優勢に戦い時にはP38を振り切りP47 とも同等に戦えました。これまでの日本 軍岐ならすでに引き離している状況であっ ても比に食らいついていることに驚愕する 米軍パイロットの証言が複数報告され、 一撃離脱を仕掛けてきた米軍機に 暗らいついて激墜するなど他の日本軍には あまり見られない事例も見せています。俺 はさずや敵からも恐れられていただろうと 思いきや比と戦った米軍パイロットからの 評価は日本軍にしてはまあ早いけどP38 やP47ではないし日本軍にしては格闘戦 が強いわけでもないためむしろ戦いやすい ていうか格闘戦の強いゼロやはやぶさの方 がよっぽど怖いという信辣なものそう両方 の性質を合わせているということはどちら ともつかない中途半端な性能になるという こと。バランスが良いとも言える一方で 起用貧乏とも言えるのです。今までの日本 軍よりは早いけど米軍機には負ける速度 性能。米軍と比べれば十分優秀だけど日本 軍の中では劣っている格闘戦性能その2つ を合わせった戦闘機はまさにそんな期待 でした。そして比炎の最大のウィーク ポイントが上昇力。元々角に頑丈な設計で 重量が重んでいた上、回収の度びに重量は 増加。オリジナルのDB601エンジンを 搭載したメッサーシミッドBF109より も全備重量が1t近くも重く、これに増 までつけると護衛する爆撃よりも上昇率が 悪くなり置いていかれてしまうことすら ありました。この上昇力不足は対戦末期の B29迎撃において特に顕となり1944 年11月に編成された新天空隊では せっかく強化した武装や防弾装備を外して 軽量化し体当たり攻撃を観光 度まで上昇できる義量を持ったパイロット は気象だったため彼らには生きて帰ること が求められ期待を捨てて落下さん降化する という戦術が取られるようになりました。 もちろん最初から利キが悪ければ正式採用 されるわけがありません。一体どうして こうなったのか。本家DB601エンジン を載せた試作第1号機は速度、旋開性、 操縦性いずれも良好。テストパイロットを こんなバランスの良い機体には乗ったこと がないと言わしめるほどの出来栄えでした 。そんな傑作器が打索機となってしまった 要因。それは回収による重量増加と期待 バランスの悪化。これはバランスを 整えようとして乗せたバラストがさらに足 を引っ張るというおまけ付き。そして最も 大きな原因は何より日本が恋いがれた液霊 エンジン。それは当時の日本には手に余る オーバーテクノロジーの塊だったのです。 ドイツベースのエンジンを心臓として 生み出されたですが、それは美しくもは なく輝くガラスの心臓でした。 本家のDB601エンジンは確かに先進的 かつ高性能だったものの、日本で ライセンス生産する際に戦略物資である ニッケルの仕様を禁じられてクランク シャフトの強度が低下。また工作機会の 制度の問題から工作制度をオリジナルより 2桁ほど妥協せざるを得ずクランク シャフトやベアリングの破損が多発。 さらに選挙悪化から来る熟連行員が不足し 、おまけに当時の日本軍の多くが積んでい たク冷エンジンとの整備の際がとどめと なって現場からは飛ぶと壊れるとまで意味 嫌われるようになったのでした。 しかし一方でこのガラスの心臓は優れた 飛行特性をもたらしていたのもまた事実 でした。頑丈な期待はツッコミが効き、 日本軍の典型的弱点であった急高化性能も 申し分なし。スマートなボディは空力性能 に優れ、頑丈かつ高アスペクト費なは高速 性と旋開性のどちらにも程よく良好な結果 をもたらしました。高速距離も0戦に匹敵 する大な距離を誇り、進行にも迎撃にも 扱いやすい、まさに総手揃った期待だった のです。もう散々繰り返しになりますが、 エンジンさえまともだったら悪い期待じゃ なかったという一言に尽きる戦闘機。それ が比です。急行化して離脱する鉄に 食らいついて叩き落とす事例もあり、その 飛行特性を生かした戦術と万全な整備、 そしてまともに動くエンジンさえあれば 強化は全く別のものになっていたはず。 改良型の1型兵では絶大なる破壊力を持っ たドイツのMG15120mm期間法、 通称マウザー法を搭載。なお、わざわざ ドイツから輸入したのは陸軍が航空機用の 20mm機間法の開発に手間っていたから 、え、海軍の20mm期間法と共容しろっ て。坊や、それは言わない約束よ。 このように重化もでき、それなりに早い 速度と程よい旋開性能から請空戦闘も爆撃 機器の迎撃も両方なくこなせるスペックを 持っていた。これでエンジンさえまとも だったら、相当使いつしの効く万能戦闘機 となっていただけに何とも残念でなりませ ん。 [音楽] 川崎航空機はまともに動かないエンジン 40に見切りをつけ、1944年秋に性能 を向上させた国産のエンジン歯140に 乾燥した新潟海へ生産ラインを切り替え ます。しかし歯140の寝台性は日本側の 目から見てもこれまた壊滅的なあり有様で 生産されたものでスペックを満たすものは ほとんどなくさらに量産には全く向いてい ない構造でした。このため期待はあるけど エンジンがない首無し比が工場内にずらっ と並ぶ異様な光景を停止、ついには 1944年中に比そのものの生産も中止と なってしまいます。しかしそれをそのまま にしておくのはもったいない。これに 対する打開策がエンジンを歯112海軍で いう金星62型へ乾燥することでした。 このエンジンは日本にとって馴染みの深い 空冷式であり、信頼性も高く、歯40は元 より歯140を上回る馬力を持っている 名作エンジン。ちなみにこのエンジンは 元々は100式令部偵察機3型のために 製造されたものですが、こっちは逆に機体 の方が間に合わずに余っていたもの。の さあ、 空冷エンジンに乗せ替えた場合、空気抵抗 が増えて空力特性が落ちすることが懸念さ れ、特に火炎は液例由来のスマートな期体 であったために、直径の大きな空冷 エンジンを乗せると、エンジンカウルと 胴体の間に20cm以上の段差ができると いう問題が発生。この部分を放置すると 機体の外計に沿って流れ込む空気が段差の 部分に渦を発生させ、大きな空気抵抗と なってしまうのですが、生じた空気の渦を エンジン周りの水力式単配期間で 吹き飛ばしてどうにかするという方法で 解消。全面投映面積の増大で最高速度は 低下したものの空冷化に伴う軽量化で格闘 線性能と上昇力が大幅に向上。そして 何より稼働率の大幅の工場が関係者を喜ば せました。ぶっちゃけ液エンジンなんて いらなかった。 設計変更部分はほぼエンジン周りのみと いうこともあり、正式発注からわずか3 ヶ月後の1944年12月末には設計が 完了。短期間での開発でありながら予想外 の高性能が認められ1945年2月には期 100式戦闘機として正式採用されるに 至りました。この3式戦闘機改め5式戦闘 機端的に言うと3式戦闘機比炎の機種を 大型化して金星エンジンをぶち込んだだけ なのですが空冷エンジンへの感想と バラストの取り外しによりのネックであっ た重量バランス整備性の全ての問題が解消 され基本設計に優れたの期待は本来の良さ を取り戻しました。 カバ勢いでできた5式戦闘機でしたが、 実践部隊の隊員からはやぶさに近い 思い通りに動く期待と高評価。大東は決戦 機となかい4式戦闘機ても上回る帝国陸軍 最優秀戦闘機。5式戦を持ってすれば絶対 腐敗という声すら出るほど評判が良く5式 戦闘機を装備した飛行第59先体はP51 となら対当。F6Fなら問題なし。不言う ならかもと表したほどでした。米軍機を 相手にするには十分な旋開性能を持ち ながら期待強度が頑丈なので大部して 逃げる米軍機の追跡も可能。特に現場で 喜ばれたのは故障が少なく操縦性能も良好 で経験の浅いパイロットでも乗りこなせる という点。3式戦闘機の基本設計が極めて 優秀であったことを5式戦闘機は証明した のでした。 元々は3式戦闘機味型が実用化されるまで のつなぎの期待に過ぎませんでしたが、 確実に稼働し、パイロットの石通りに動き 、F6、FやF4Uと互角に渡り合い、 しかも状況によっては圧倒できるだけの ポテンシャルは有しており、対戦末期の 陸軍航空隊の式の寄りどとなります。陸軍 の大きな期待とそれに答えられるだけの 性能を持って誕生した5式戦闘機でしたが 、空習の被害などにより選曲を覆返せる だけの大量生産など望むべくもなく、生産 されたのは約400期。そしてこの5式 戦闘機が帝国陸軍が正式採用した最後の 戦闘機となったのでした。 岐阜鏡ヶ原航空宇宙博物館。ここに世界で 唯一ほぼ完全な状態で保存されているの 原存機が展示されています。これは終戦 直後に米軍に接収され、その後変換された 期待です。また岡山県市ではパプワ ニギニアで発見された実期から再して制作 された原寸大レプリカが展示されています 。現代に蘇った龍先系の美しい姿。F15 にしかり、フランカーシリーズに叱り、 そして比に叱り。戦うことを宿命づけられ た者たちはなぜこうも美しいのでしょうか 。例えば日本島を見た時、人を切る武器と しての側面に恐怖を感じる一方で我々は そこに美しさを見え出します。それは強さ を追求し、徹底的に無駄を削ぎ落とした 記日の頂点とも言える形。0やはやぶさ など世の中には数多くの戦闘機があれど、 この点において比抜け た存在であると私は感じます。さらに比え という名前。このネーミングセンスが 素晴らしい。安直に考えるとわしとか高と か強そうな鳥の名前をつけがちですが託さ れた名前は空を飛ぶつばめ。それはまさに この期待の美しさを対現したような名前。 その進化を発揮しきれなかったがゆえに 不遇の戦闘機とも言われる。でも例えそう であったとしてもなぜだか私の中で特別な 飛行機であり続けるのです。 [音楽] マイナスドライバーの悲劇。 1945年8月広島長崎に原爆日。しかし 原爆日計画はそれで終わりではありません でした。長崎を焼き尽くしたファットマン に続く第3の原爆として用意されたのは 6.2kgのプルトニウムの塊り。10日 を木前に控えながらも終戦を迎え歴史から その存在は消げたかと思われました。 しかし生場を失ったその運命は実験室へと 移り人類の好奇心と油断を容赦なく試す ことになるのです。戦争は終わってもこの コワが串の物語はまだ終わらない。次回 学校では教えてくれない理行学デーモンコ
メンバーシップ登録はコチラhttps://www.youtube.com/channel/UCgBiouoPdC9HvS2SJEpanHg/join
イタリア機のような流線形のスマートなボディーにドイツ生まれのエンジンを搭載。日本機らしからぬその姿はまさに燕が飛んでいるかのような戦闘機、飛燕。過剰なまでに頑丈に設計された機体は日本機の最大の弱点と言われる急降下性能に優れ、米軍機にもついていける数少ない存在。これには思わず陸軍さんもニッコリと思いきや、味方からは「飛ぶと壊れる」、敵からは「日本軍機の中で一番やりやすい機体」と言われる低評価。その燕は傑作機なのか駄作機なのか。
【チャンネル支援物資】
当チャンネルの動画に共感し、支援して頂ける方がいらっしゃいましたら、下記ページより支援物資を送っていただけると今後の動画作製の励みになります。
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1K576I8GL56F3?ref_=wl_share
【学校では教えてくれないシリーズ】
【作った本人が選ぶオススメ動画リスト】

25 Comments
五式戦は、いいですね
あの、もう一つの終戦
占守島の戦いを動画にしてください。
最初から空冷式エンジンの搭載を考えていたらFw190の様に空冷式と液冷式の両方量産出来ていたかもしれない!
2000馬力級の液冷エンジンを実用化したら飛燕はムスタングを上回ったでしょう。
ワガママな美人よりも素直に反応してくれる近所のお姉さんっぽい女性が好きな日本の強者😑
最高速は伸びるし機体も丈夫なんだけどトップギヤだけで飛んでるようなもんで機体も重く加速が悪かったらしい。ME109とエンジンマウント比べても飛燕は無駄が多いよ。また川崎は真面目にDB601をコピーしたもんでベアリングを使ったら公差が0.2mmもあって焼き付き続出。愛知は「ウチらにベアリングは無理」ってんで使い慣れたメタルにしたからマシだったようです。
先日は占守島の事、失礼しました。
改めて2本動画を拝見しました♪
して今日の地元の新聞に千島上陸80年の記事がありましたが…ロシア(ソ連)側の書き様であり、この記事からあの戦闘は伺う事もできませんでした。記事にある赤錆びた日本軍の戦車がとても悲しげに見えましたよ…。
ありがとうございます!
父方の祖父は戦時中飛燕の整備兵でした
重量があり機動力に難があるものの急降下は鋭い機体と言っていました
戦時終盤は片道の燃料を積むことになり…
涙を流しながら給油をして送り出したと話してくれました
神戸で川崎重工創立120周年記念展で復元された実機を見てから、投稿主さんと同じ印象を抱くようになりました。正直、それまでは日本が背伸びして、出来もしない技術に手を出して作られた駄作機という認識でしか無かったです。今では日本機で一番好きな機体になりました。
その後、有り難い事に岡山県浅口市のドレミコレクションのパプアニューギニアから里帰りした実機とレプリカ機も拝見出来ました。改めてスマートで美しく機体と感じました。実機に搭乗されていたのが岡山県出身の垂井中尉で、まさに奇跡の里帰りだったのも驚きでした。
飛燕というネーミングが良いよね! 圧倒的に資源不足の日本で、水冷V12気筒のエンジンを搭載した戦闘機を造るとか無茶が過ぎたと思うけど。
設計図の援助ぐらいしかしないナチスドイツなんかと同盟を結んだ東条政府は戦争で無茶ばかりやったよね。仕舞いには国民に鍋や釜まで原料として差し出させた始末だし。
日本軍は、V12気筒の飛燕などを造るよりも紫電を改良した紫電改の生産に尽力した方が良かった。
局地戦闘機の雷電も夜間戦闘では使いものにならず、無能な軍上層部のプライドや仲たがいが日本を負け戦に導いたね。
この時点でも優秀な操縦士はまだ残っていたのに、第一線で戦うパイロットの意見を聞かない軍部。陸軍と海軍でいがみ合うだとか最初から米連合軍に負けてるし。
理想に現実が付いて来なかったんだな
見掛け倒しというには気の毒だが
ありがとうございます♪
とても面白かったです🎉
マウザー飛燕強いには強いんだけどね、「火力は」…
海軍の20mmエリコンだったかな?陸軍はその点も嫌ったんかね
海軍がライセンスした同じDB601Aは補機類を独自改良でクーラントを使用するのではなく簡単に調達できる水で稼働できる事とした。馬力アップにも成功している。海軍側は豊富な金属資材と質のいいベアリング加工技術は艦艇建造で経験豊富だったと聞いた事がある。後、5式戦は4式戦疾風との模擬空中戦で4式戦3機分価値があるって聞いた事がある。
各務原飛行博物館で飛燕を見た時は感動で涙が出ました
エンジン出力が弱い上によく故障する。火力も低い。エンストは一番困るので自分で乗りたい、使いたいか?は否だが、急降下速度と見た目は合格点。本土防空以外で、あまり活躍したイメージが無い。
五式戦で米軍と互角と思いたい気持ちは分かるが、米軍機のほうが馬力も火力も防御力もおそらく搭乗員の平均技量も上だし、数倍の戦果誤認の状況で互角という判断かも知れない。
そりゃエンジンのライセンス生産する時点で改悪に次ぐ改悪しまくってりゃぁねぇ。
ただ空力設計そのものは悪くなかったのは後に5式戦が証明してる。
もっと早く液冷エンジンを諦めるべきだった。飛燕の事もあるが、エンジンは生産の工程数が多過ぎて空冷エンジンの生産の足をかなり引っ張っていた。軍も川崎も、これだけ資金と労力を費やしたにダメでしたでは勿体無いとなかなか損切りできなかったらしい。
余った首なし機に司令偵察のエンジン載っけたら最強だった皮肉
万全な整備があれば…やマトモな発動機があれば…と言っている時点で名機ではないと言わざるを得ないでしょうね。米軍からも、撃墜しやすい機体だったと評価されていますし
格闘戦がダメ、、、それほど速くない、、、エンジン不調が多い、、、、カモですわ。
やはりダイムラーのエンジンがネックだったな もしユンカース社製のエンジンを積んでいたらもう少し
活躍できたのだろうか あと空気取り入れ口をマスタングのように改良していればオーバーヒートの問題なども
解決できたのかな
三式戦闘機 ぴえん