イエスの復活の力 | Joseph Prince | New Creation TV 日本語

旧正月おめでとうございます まだ皆さんに旧正月の挨拶が
できていませんでしたね 皆いつもよりも
ふくよかで豊かな感じですね でも旧正月のお祝いで
食べ過ぎてしまったという人は どうか自分を責めないで 特別な時だけは
いいじゃないですか そういったことについて
厳しくなりすぎないでください ちなみに私は
「健康」を他とは変わらない 人生の一つの側面に過ぎないとは
考えていません もちろん人生のあらゆる側面の
バランスが取れていることは重要ですが その中でも健康は超重要です 私は今
意図的に「健康的」ではなく 「健康」という言葉を用いました 運動や良い食習慣を実践することで
健康的であることはできます でもそれによって必ずしも
健康が得られるわけではありません 健康は神から来るものです アーメン
神は言いましたね “「わたしは主
あなたを癒す者だからである」” これはつまり
神が健康の源であるということです 良い食習慣を実践していて
定期的に運動もしているのに 急に体調が急変し
亡くなってしまうという人がいます そして私たちは あんなに健康的な生活をしていた人がなぜ?
と不思議がります 毎日精力的に
ジョギングをしていたような人が ある日突然
この世を去ってしまう こうは言っていますが
良い食習慣は大事にしましょうね アーメン だけど
旧正月という特別な時に シンガポール名産のパイナップルタルトを
食べてしまったからといって 自分を責めたりしないでください
感謝しましょう アーメン 旧正月の後で
同僚の顔が見分けられない? 大丈夫です その同僚を
責めないであげてください その人がすでにイエスを信じて
受け入れているならば “今やキリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません” と書いてあります アーメン 私たちは今
三日目の中を生きています そして神は
決して退行することはありません 神は常に前に進んでいます “正しい人(つまり義なる者である
皆さん)の進む道は” “あけぼのの光のようだ” “いよいよ輝きを増して真昼となる”
アーメン では今から今年のテーマのビデオを
もう一度見ていきます 今回はもしかしたら 見ながら「あ〜自分は三日目にいるんだ」
という実感が得られるかもしれませんよ 三日目 神を讃えます 私たちは新年が訪れるたびに その年に何が準備されているのかを
知りたがります そしてその願望から ある人たちは完璧ではなくて
失敗を免れることはできない 「人」に
その答えを求めに行ったりします またある人たちは
悪霊に憑かれた人たちのところに行ったりします 例えば占い師のところに行って
その占いが正確であるならば その占い師はほぼ確実に 汚れた占いの霊によって
それを行っています ある英語訳では
その占いの霊を 「おなじみの霊」という表現で
呼んでいます そしてそのおなじみの霊は
あなたとおなじみのなりをして 「呪いを解いてもらいたかったら
お金をよこせ」 というようなことを言ってきます そんなものに決して
耳を貸してはいけません それに耳を貸すことは 暗闇の力に対して自分の人生のドアを
開けることになります 私たちは
霊的な戦いの中に置かれています 世の中に現れている
しるしのすべてが 私たちが今霊的な戦いの中にある
ということを証明しています そしてまた興味深いことに 現在全世界の注目が
中東に向けられています これまで現在ほどに
中東に注目が向けられた時代はなかったと思います 特に18世紀までは 世界の注目が中東に向けられるなど
ということはほぼありませんでした しかし
その遥か昔に書かれた聖書は 終わりの時代に
世界の注目が中東に集まるということを すでに述べていました 今私たちが生きているのは 世界の注目が
中東に集まっている時代ですね 私は今悪魔が何をしているのかは
知りません そして知りたいとも思いません 私が知りたいのは
神が何をしているかです 悪魔は今世の中で
優勢に立っているように見えますね だけど悪魔のしていることさえもが
聖書の信憑性をさらに証明しています もちろん
悪魔が何もしなくても 聖書が神の息がかかった神の言葉であることに
変わりはありません だけど今悪魔は神に抗うことで
聖書の信憑性をさらに証明し まるで自分の足元に
矢を放っているかのようです ちなみに聖書の最後の書である
黙示録には エルサレムで何かが起こることになると
書かれています そして世界中の目が
その場所に向けられ 皆がその出来事を目の当たりにすることになる
と書かれています その聖書の言葉が書かれた
当時においては それはそんなことが起こるわけないだろうと
一笑にふされるようなことでした 18世紀でもそれを現実的に信じるのは
難しい状態でした でもクリスチャンは 聖書がすべて神の霊感によるものである
と知っていたので ただ信仰によってそれが起こる
ということを信じていました 神が時間を超越していて 全てを知っているということを
信じていたからです 神はイエスが
ベツレヘムで誕生することを 預言者ミカを通して預言しました その預言は
次のように書き記されています “ベツレヘム・エフラテよ” “あなたからわたしのために
イスラエルを治める者が出る” “その出現は昔から
永遠の昔から定まっている” これはイエスがベツレヘムで生まれる前から
存在していたことを意味しています “初めにことばがあった
ことばは神とともにあった” “ことばは神であった” とにかく
イエスの誕生についての預言は その誕生の場所を示していました またイエス誕生についての預言は その誕生がイスラエルが
自分たち独自の王の支配下ではなく 他国の支配下にあるときに起こる
ということも示していました また詩篇22篇の預言は
彼の手足が刺し貫かれることを語り 彼が十字架に架けられることを
示していました そしてその詩篇22篇は
ダビデが聖霊によって書き残したものであり それはイエスが生まれる
約1000年前に書かれたものです その当時では死刑といえば
石打ちでした 十字架ではありませんでした 実際ダビデの時代には
十字架は存在していなかったはずです それでもなお ダビデは
やがて訪れる救い主が その手足を刺し貫かれることを
預言したのです 後々、十字架は
フェニキア人によって発明され その後で
ローマ人がそれを取り入れました ダビデの時代には
ローマ人は存在してさえもいませんでしたね とにかく神の預言は
とてつもなく正確であるということです そして神の預言の一つは
イエスが再来し すべてが中東に収束する
というものです でもイエスの再来は二つあります その一つは
世の中が目にしない形で起こるものです 聖書はそれが瞬きする間もないほどの速さで起こる
と述べています その時目にも止まらぬスピードで
私たちはこの世から姿を消します その瞬間に
私たちが挙げられるからです イエスが私たちを迎えに来る
その時のことを 聖書はこう述べています 私たちは”終わりのラッパとともに
たちまち一瞬のうちに変えられます” “私たちはみな眠るわけではありませんが
みな変えらえます” “そしてこの朽ちるべきものが
朽ちないものを必ず着ることになり”ます この朽ちるべきものが
朽ちないものを必ず着ることになるのです パウロはこのことを “私はあなたがたに奥義を告げましょう”
と言った後で語っています 今実際にその聖書箇所を見てください これは実際に見て
読むのがベストだと思います “聞きなさい
私はあなたがたに奥義を告げましょう” “私たちはみな
眠るわけではありませんが” ちなみにこれは
クリスチャンが死ぬのではなく 眠るだけであるということを
暗に示してもいます 寿命の間にイエスが迎えに来なかったら
私たちは眠るだけなのです 眠る前に迎えに来てもらえるか 眠った後で起こされるのかの
どちらかです どちらにせよ私たちが向かっているのは
他ではありません テサロニケにある”御子が
天から来られるのを待ち望む”というのが 私たちが常に取るべき
信仰の姿勢でしたね 彼はいつ来ても
おかしくありませんよ そしてこの箇所はさらにこう続きます “私たちはみな眠るわけではありませんが
みな変えられます” “終わりのラッパとともに
たちまち一瞬のうちに変えられます” “ラッパが鳴ると
死者は朽ちないものによみがえり” “私たちは変えられるのです” とても興味深いことに
キング・ジェームズ訳は何を思ったのか このラッパの部分に
トランペットではなく トランプという言葉を
用いています れっきとした
伝統的なキング・ジェームズ訳が このラッパの部分に
トランプという言葉を用いています つまり次のようだということです 「終わりのトランプとともに…」 「え、これって
アメリカ大統領のこと?」 決してそういうわけではありませんからね
冗談ですよ “ラッパが鳴ると
死者は朽ちないものによみがえり” “私たちは変えられるのです” “この朽ちるべきものが朽ちないものを
必ず着ることになり” お医者さんに行って診断を受けると あなたの体が朽ちるべきものであることを示す
何かしらの結果が現れますね そして実際
病気というのは 私たちの体のどこかが朽ちたことの現れ
でもあります 私たちはそれを
「病気になる」と呼んでいます そして世の中では
年老いたら 「それと共に体が朽ちていくのは当たり前のこと」
とされています 言い換えるならば 体は自然に朽ちていくものとして認められている
ということです でももちろんそれは
神のもともとのデザインではありませんでした はじめに神は
人を強く健康で病気にかからず いつまでも若く永遠に生きる者として
造りました ただ霊だけで永遠にぷかぷかと浮かんでいる
存在としてではありません 確かに人は霊なるものですが 神はその霊である人に
家として肉体を与えたのです だからあなた自身は肉体ではありません あなた自身は霊であり
肉体に住んでいるのです それについては
今日以外でもっと話します とにかく今はこの箇所です “この朽ちるべきものが朽ちないものを
必ず着ることになり” 想像できますか? あなたにはまだ肉体があり
あなたはその中で生きている でもこの瞬間から
あなたの肉体はもう老いることはない 病気になることもない もう衰え朽ちていくことも
決してない それはその瞬間に
朽ちないものを着たからです この死ぬべきものが死なないものを
必ず着ることになるからです これは死に向かっていた
あなたの肉体が もう死ぬことのない肉体に変えられる
ということです そして死は
もう過ぎ去りしものとなり 私たちは永遠に朽ちず
死なない肉体を着るのです これが天のお父さんが
私たち皆に望んでいることです 神は私たちが皆 彼の愛と恵みと備えの下で 強く健康に永遠に生きることを
望んでいます そしてそれこそが神がアダムとエバに
もともと立てていた計画でした 「神の願いは貧困を通して
私たちに謙遜を学ばせることだ」と もしあなたが信じているなら
どうかエデンの園を見てください エデンの園ではすべてが潤沢でした そこでは
すべてがあふれかえり 一組の夫婦にはあり余るほどが
そこでは備えられていました そして神が創造したそのすべては
彼らのためにそこにありました でもそこには一本だけ
特殊な木が植えられていました その木は神に属する聖域として
エデンの園に植えられていました そして人は
その木から食べないことを選ぶことで 神自身に属するものには手を出さない
ということを示し それによって
神を礼拝できるようになっていました その木から食べないことを
選ぶことは 「自分に与えられた全ての祝福の源は
神である」 ということを
宣言することだったのです ここに十分の一献金の原型が
ありますね 十分の一献金とは全収入の十分の一を
神に捧げるというものです つい最近
私は息子に十分の一献金を教えました 彼が相当な額のお年玉を
いただいたからです 彼がお年玉に歓喜し
何を買おうかなと考えている中 私はこれは彼に十分の一献金について教える
良いチャンスだぞと思いました 人は幼くて純粋な時の方が
素直に十分の一献金を理解できると思います とにかく私はその時彼に
十分の一献金とは 神が祝福の源であることを宣言することだ
と教えました ちなみに「10%だけでいいよ」などと言ってくれる
共同経営者など普通いませんね でも神はそのただ10%を
あなたの意思表明として求めているのです そしてそれは神が全ての祝福の源である
という意思表明であり 礼拝です 興味深いことに聖書で
10分の1献金を示しているヘブライ語は ma’aserですが それは4つのヘブライ文字で
構成されています そのma’aserから 最初の文字であるmemを取り除くと
aserとなります memという文字はある言葉にくっついて
それを名詞にする働きがあります とにかくそこからmemを取り除くと
aserですが aserとは「10という数字」や「裕福な」
という意味があります ちなみに
これは聖書に出てくる言葉ですからね 実際この言葉は
アブラハムの次の発言に出てきます “「私はあなたの所有物から
何一つ取らない」” “「それは『アブラムを富ませたのはこの私だ』と
あなたが言わないようにするためだ」” この”富ませた”という言葉も
aserなのです このように神は十分の一献金に
富むことを潜ませました 十分の一をどうするかは
あなた次第です でも私がはっきり言えるのは 神が定めたやり方に従って 収入の十分の一を
神に捧げ続けることを選ぶなら その十分の一がない
という理由で あなたが欠乏することは決してない
ということです その10%が残っている
100%の状態よりも 神の祝福を受けた90%の方が
豊かなのです 私は十分の一献金を
長い間実践してきて その間何かに欠乏した
ということはありません そしてそれだけでなく
神は私を大きく祝福してくれました 実際この教会から
給料を受け取らなくても良いほどに 神は私を祝福してくれました 皆さんも
ぜひ知っていてください 神は十分の一献金をする人に対して
本当に忠実に備えてくださる方です でもその決定的な要因は
十分の一献金ではありません 十分の一献金は私たちが祝福されるためにする
良い行いではありません 十分の一献金とは神に属するものを
神に返しているだけです だから私は「自分の十分の一を
あなたに捧げているんだぞ」 などと
高慢になってはいけません 例えばあなたが
私の車を1ヶ月借りたとします そして1ヶ月後に
私が「車を返して」と言ったら あなたは
「OK、私の車を持ってくるね」と言った 「え?それはあなたの車じゃないでしょ?」
となりますよね アーメン アーメン 私は100%をキープするよりも
神の祝福を受けた90%を持つ方が良いです また神の原則に従わないとき 私たちは間違ったところに
お金を費やしてしまいます さてと
ではメッセージを始めます あけましておめでとうございます この新年
お年玉をいっぱいあげたかもしれませんが 私たちにとって
最も重要な存在を忘れてはいけませんよ でも私たちが
献金しなかったからといって 天国で次のような会話が
なされるわけではありません 「あーちょっと資金が足りないな」 「黄金の道路の
あの部分を補修しなければいけないんだけど」 「地上の皆が力を合わせて」 「その補修資金を集めてくれたら
助かるんだけどな」 「そうすればその上にマーク牧師の豪邸を
建てられるんだけどな」 ちなみに皆さんの豪邸も
ちゃんと準備されていますよ アーメン、携挙が起こったら
あなたはその豪邸に直行です 私たちは豪邸に住むのです イエスはこう言いました 「わたしの父の家には
マンション(豪邸)がたくさんあります」 「そうでなかったら
それにメンション(言及)したでしょうか」 うん、今日は
ダジャレも冴えていますよ それではこの箇所に戻ります “この死ぬべきものが死なないものを
必ず着ることになるからです” これは携挙のことであり
いつ起こってもおかしくありません 「えー、でもプリンス牧師」 「それが起こるとき
どんな風に感じるのかな?」 きっとたちまち
幸福感に包まれるでしょう それまで感じたことがなかったような
力も感じるでしょう そして活力と生命力が湧き上がり 豊かないのちが溢れてくるのを
感じるでしょう それは言葉に表しきれないほどの
素晴らしいものであるはずです 私はまだそれを経験していないので
想像するしかありません でも私のうちにすでにある
永遠のいのちが その素晴らしさを時に
私のうちでざわめかせています それでは今から聖書で「三日目」が
最初に言及されたところを見ていきます でもその前にまず
ホセア書6章を読みましょう “主は二日の後に
私たちを生き返らせ” “三日目に
立ち上がらせてくださる” “私たちは御前に生きる” この箇所に書かれていることが 今年起こる可能性は
十分にあります アーメン 私たちはどんな時も 天からの御子を待ち望んで
人生を生きるべきです どの日にも どの年にも
あらゆる場合にです アーメン でもこの聖書箇所は特定的に “主は二日の後に
私たちを生き返らせ” “三日目に
立ち上がらせてくださる” “私たちは御前に生きる”
と述べています この”御前に生きる”という表現は
「面と向かって生きる」という意味です この表現がこの聖書箇所を
とても興味深いものにしています 誰もこの預言に書かれていることは 「必ずこの日に起こる」とか 「必ず今年に起こる」とか
言ってはいけません 誰もそのように日時やタイミングを
特定することは許されていません よろしいですね しかし私たちはここから 霊的な個人的語りかけを
受け取ることはできます そしてその語りかけとは
「生き返りを期待しよう」です そしてその生き返りは
二日の後に起こります そして神は
三日目に立ち上がらせてくれます これはどういうことでしょうか? もしあなたが寝たきりならば または車椅子生活ならば
またはいつも病気で座ってばかりならば 神はあなたを
立ち上がらせてくれます 聖書のヨブ記には 「知恵の奥義が二要素からなる」
ということが書かれています それはつまり知恵には 目に見える適用と霊的な適用がある
ということです そして時にはその二要素に加えて
神の摂理的な適用もあります アーメン ここには
はっきり書かれています “主は三日目に
立ち上がらせてくださる” “私たちは御前に生きる” “私たちは知ろう
主を知ることを切に追い求めよう” “主は暁のように確かに現れ” “大雨のように
私たちのところに来られる” “地を潤す
後の雨のように” アーメン 皆さんに
素晴らしいお知らせがあります 何かしらの病気の診断を受けた方 地上において私たちは
病気などの困難に直面することがあります それはアダムが罪を犯した瞬間から 人の肉体は
堕落した状態にあるからです そしてそのアダムの罪によって 人がエデンの園で受けていた 「病気にかからない」とか
「不足がない」とか 「死なない」とかの祝福は
没収されました アダムが神に逆らって犯した罪には
それだけの重みがあったのです 罪の報酬は死です 罪は死をもたらすのです それは今日においても同様です アーメン 私たちは罪を犯すたびに 寿命の何日か何ヶ月か何年かが
没収されます そうですよ そう聖書に書かれています しかし
“主への恐れは日数を増やす”です つまり神を礼拝するとき
あなたの日数は加えられるのです あなたが見せかけではなく 霊とまことによって
心から神を礼拝するとき あなたには本当に
日数が加えられます 日数どころか
月数かもしれません それとももっと言って
年数かもしれません 寿命を縮めるような行為もあれば 寿命を延ばすような行為もあるのです 聖書は「その時が来たら、あなたはこの世を去る」
とは述べていません 聖書はそうではなく 私は”長寿をもって彼を満ち足らせ”
と述べています 人は何歳まで生きられたら満足か
という点について それぞれ違った基準を持っています 人によっては「早く天に旅立ちたい」
という人もいますよね パウロは自分に死を克服する力があるかのように
語っています そしてそのパウロは
私たち全ての模範です もちろん私たちの究極の模範は
イエスですが パウロは
“私がキリストに倣う者であるように” “あなたがたも私に倣う者でありなさい”
と言いました 私たちは完璧で責めるところのない
イエスのようになろうとする上で その旅路において
自分の先を行くクリスチャンを模範とし その人の人生から
インスピレーションを受け取って イエスにより近づくことができるのです アーメン そしてその点で 私たちの模範であるパウロは
次のように言いました 「私は2つの相反する選択肢に挟まれて
ジレンマに陥っている」 「あなたたちは私が肉に留まることを
必要としている」 「あなたたちは
私のミニストリーを必要としていて」 「私が肉に留まり、働きを続けることは
あなたたちにとって益となる」 「だけど肉を離れて」 「キリストのもとに行く方が
私にとってはずっと良い」 パウロの考えではキリストのもとに行く方が
ずっと良かったのです でもその上でパウロは
それでも地上に残ることを選びました パウロは最終的には
殉教死を遂げましたが その2つの選択肢においては
地上に留まることを選んだのです それが分かるのは
パウロが殉教死を遂げたのは “私は勇敢に戦い抜き” “走るべき道のりを走り終え
信仰を守り通しました” と言った後だったからです そして復活の力に満ち溢れ 病気知らずの元気いっぱいの彼が
走るべき道のりを走り終え 最期を遂げる上で
一番早い方法は殉教死でした またパウロはピリピ人への手紙では
次のように述べています “(私は)何とかして
死者の中からの復活に達したいのです” “私はすでに得たのでもなく” “すでに完全にされている
のでもありません” “ただ捕らえようとして
追求しているのです” パウロはこのように言いました このパウロの言葉については
いつかもっと教えることになると思います 携挙の世代について
今私が話そうとしていることは 他で聞くことはほぼ皆無 いやむしろ
皆無なことです 私は昨日の朝 神から次の聖書箇所を語りかけられて
目を覚ましました だから今
それについて話していきたいと思います このテサロニケ4章は 携挙についての聖書箇所として
よく知られていますがこうあります “私たちは主のことばによって
あなたがたに伝えます” 携挙は誰かの想像上のアイデアではない
ということです ある人たちが言っているように 18世紀に生まれたアイデアでも
ありません スコフィールドのアイデアでもないし ダービーのアイデアでもないし マシュー・ヘンリーのアイデアでもありません それは主の言葉です “私たちは主のことばによって
あなたがたに伝えます” “生きている私たちは
主の来臨まで残っているなら” これが昨日の朝
神に語りかけられた一句です この一句については
以前も話しましたが 今回はこれまでにないほどに
強く語られました それはここに
“生きている”と “残っている”という
2つの言葉がある点についてです “生きている私たちは
主の来臨まで残っているなら” 例えばこれが “生きている私たちは
主の来臨まで残っているなら”ではなく 「私たちは
主の来臨まで生きているなら」 “眠った人たちより
先になることは決してありません” であっても 日本語的には
何の問題もありませんね “生きている”という言葉だけでも
十分に伝わるはずなのに なぜ”生きている”と”残っている”という 2つの言葉が
使われているのでしょうか? この”残っている”という言葉は
調べてみると 「サバイバー」という意味である
ことがわかります 「サバイバー」というと
どのようなイメージがありますか? 高層ビルが倒壊するシーン
があったり 大地が割れるシーンがあるような 世界滅亡を映す映画の
主人公は 颯爽と
その大混乱を生き延びます そして必ずその主人公は
サングラスをかけています 街が埃まみれだから
仕方ないですね とにかく彼はサングラスをかけ
武器を駆使して生き延びます その主人公こそがサバイバーです でもその映画は
果たして生き延びるでしょうか? またそれを見る人たちは
最後まで生き延びるでしょうか? つまり居眠りしないでしょうか? なかなかその点でサバイバーになれない映画が
多いですよね とにかくサバイバーとは あらゆる困難を乗り越えて
生き延びる人たちです このサバイバーという言葉は
「強さ」を示しています 「生きている」というのであれば 10歳とか7歳とか5歳とか20歳とか
若ければ 誰でも大体は可能ですよね 若くして亡くなる人もいますが
若い人たちの大半は生きています だけど生き残るサバイバーであるには
強さが必要です この「携挙が起こる時まで生き残る人」
というのは 神の言葉から何かを掘り起こす人々に
違いありません 彼らをイエスが迎えに来る時まで
生き残らせる原動力は 神の言葉だからです これの型も
聖書にちゃんとあります 聖書には
神がどのように働くかの 型とパターンが
ぎっしり詰まっています そしてこれの型は
イエスの最初の到来の時に見出せます イエスは
この世界に初めて到来する時 世界の救い主として来ましたね その時
シメオンという男がいました イエスが生まれて 親のマリアとヨセフは
そのイエスを宮に連れてきました するとそこにとても年老いたシメオン
という男がいました そのシメオンがイエスに向かって
こう言ったのです “「主よ、今こそ
あなたはおことばどおり」” “「しもべを安らかに
去らせてくださいます」” 美しいですね 彼は「死なせてくださいます」
とは言いませんでした “「私の目があなたの御救い
(イエシュア/イエス)を見たからです」” 死は呪いです だから彼は”「去らせてくださいます」”
と言ったのです もちろんこの後
シメオンの心臓は止まることになります だけど彼は
自分がそこを去り ただ他の場所に行くだけであることを
知っていたのです そしてこの”安らかに去らせてくださいます”
の”安らかに”は shalomという言葉です つまり「病気なしで健康に」
ということです このシメオンは聖霊から 「イエスを見るまでは彼が決して死ぬことはない」
ということを示されていました その事実は
ルカ2章26節に しっかりと記されています アーメン もしシメオンが現代の ソーシャルメディアの時代に
生きていたとして 彼が「自分はイエスが来るまで決して死なない」
と投稿したとしたら その投稿はどれだけの批判と嘲笑を
浴びることになるでしょう 人々は彼を
大バカ者扱いにするでしょう 「彼はカルトだ」「異端だ」と言う人も
出てくるでしょうね でも聖霊がシメオンに 「彼がイエスを見るまでは決して死ぬことはない」
と告げたのです ここにイエスの二度目の到来にも
当てはまる型があります イエスがダビデの町で生まれた
ということを 天使たちに知らされたのは
羊飼いたちでした それと同様に 神はイエスの二度目の到来がもうすぐである
ということを 羊飼いである教会の牧師やリーダーたちに
警告するのです アーメン? アーメン 少し気になったので
聞かせてもらいますが イエスの再来まで死を見たくないという人は
手を挙げてください それとも「いや、もう十分だから死なせてくれ」
ですか? どうか、そんなことは
言わないでください アーメン どんな状況であっても
人生を決して諦めないでください あなたはどんな困難も乗り越えていける
サバイバーです アーメン これはあなたの教会です そしてこの教会は 私たちが人生を諦めるに値するほどに
困難なことは存在しない と信じています アーメン あなたは夢にも思わなかったほどの
高さと偉大さに登っていける 私はそう信じています
アーメン では「三日目」が聖書で最初に出てくる箇所を
見ていきましょう どんな聖書の言葉やコンセプトも それが聖書に初めて出てくる箇所というのは
とても重要です 例えば「愛」という言葉 それが聖書で初めて出てくるのは
創世記22章です それは神がアブラハムに “「あなたの子、あなたが愛している
ひとり子イサクを連れて」” “「モリヤの地に行きなさい」”
と命じたシーンです これが「愛」という言葉が
初めて用いられた箇所です それは何を物語っているのでしょう 聖書の解釈には「最初の言及の原則」と
呼ばれるものがあります それはある言葉の最初の言及を
よく研究することで その言葉が聖書を一貫して
どのように用いられているのかが分かる というものです そして愛という言葉が最初に出てきたのは
この箇所でした 世の中では男女間の
「愛してるぜベイビー」的な愛が 愛の一番典型的な
イメージかもしれませんが それが愛の究極の形
ではないのです 「愛してるぜベイビー」的な
ロマンチックな愛は 愛の究極の形ではないのです 聖書が究極の愛として示しているのは
「父の息子への愛」です 「あなたの子
あなたが愛しているひとり子を連れて」 この父から息子への愛が
愛の最初の言及でした 神が私たち全ての罪のために
十字架上で捧げた存在は 神がこよなく愛するひとり子でした 彼は神にとってのひとり子であり
神は彼をこよなく愛していました 神はそのひとり子さえをも
私たちのために捧げたのです 私たちは誰ですか? なぜ?
私たちが何者だというのでしょう? 神がそれほどまでして
買い戻そうとしてくれるとは 私たちは自分たちの罪についてを
メッセージで語るとき 自分たちが神にとって
どれだけ大切な存在であるというのかを 忘れてしまいがちです もちろんキリストなしでは私たちは皆
罪人です でもだからといって 私たちは神にとって
尊くなくなったりはしないのです もし罪人だからという理由で
無価値になるならば 神はイエスを
私たちの身代わりとして 地上に送ったりは
しなかったはずです 神がひとり子イエスを
どれほど愛しているかを知るまでは 神があなたをどれほど愛しているかを
知ることはできません ひとり子イエスこそが
神があなたのために支払った代価だからです ある女性がドレスを見ています 彼女は5000円を持っている いや、最近じゃ
5000円でドレスは買えませんでしたね それは僕でも知ってます 買えるとしても
格安のオンラインショップぐらいでしょう とにかく
5000円だと現実味がないので その女性は10万円を持っていて 10万円のドレスを買おうとしている
としましょう 彼女はドレスと10万円
どっちを愛しているでしょう 彼女がもし10万円を手放して
ドレスを買うならば 彼女はドレスの方をより愛している
ということになります 私たちは
そのように論理的に考えますね 彼女はお金よりも
そのドレスに価値を見出したから それを買ったのです でも神は
ひとり子と私たち両方を大切にし 実際はひとり子に
何よりも価値を置いています でもそのひとり子を
あなたのために捧げた だからこの究極の愛においては
比較など存在しえないのです そして聖書は
その愛についてこう述べています “私たちすべてのために” “ご自分の御子さえも惜しむことなく
死に渡された神が” “どうして…すべてのものを
私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか” 「おお、我が愛する兄弟よ」 これはローマ8章32節の引用です でも「我が愛する兄弟よ」という部分は
私の付け加えです 私たちはこの箇所を “どうして御子とともにすべてのものを
私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか” と棒読みしてしまいがちです でもパウロは
そんな風には書かなかったはずです “私たちすべてのために
ご自分の御子さえも惜しむことなく” “死に渡された神が” “どうして御子とともに” “すべてのものを私たちに
恵んでくださらないことがあるでしょうか” アーメン “自分のものにならないのは
あなたがたが求めないからです” 「神はご自分の御子さえも惜しまずに
与えてくれたのだから」と気付ける人は 神にどんなものでも
大胆に求めることができます もちろん もちろん もちろんこの発言を馬鹿げた形で
受け取りはしないでください 一応言っておきますが
誰かの奥さんを求めちゃダメです 誰かの旦那さんを求めちゃダメです 誰かの車を求めてもダメです 私が言っているのは
そういうことではありません そんな当たり前のことは
分かっていますよね もちろん神に罪深く何かを求めるなど
ということはしてはいけません 神が最高な人を
あなたのために用意しているのに なぜ誰かの奥さんを求める?
アーメン? 「でももう結婚しちゃってるよ」 では奥さんを内側から完全に変えてくれるように
神に求めなさい 「いいの?」 神はご自分の御子さえも惜しむことなく
死に渡されたんだよ ダビデはその点において
間違いを犯しましたよね そして神はその点を
ダビデに思い起こさせました 神はダビデが
バテシェバの旦那を殺し バテシェバと姦淫を犯したことについて
ダビデにこう告げました “「わたしはあなたに油を注いで
イスラエルの王とした」” “「さらにあなたの主君の家を与え
イスラエルとユダの家も与えた」” “「それでも少ないというのなら」” “「あなたにもっと多くのものを
増し加えたであろう」” 「それを求めさえすればよかったのだ」 人は欲しいものを得るために
殺したり騙したりします それは神を…
信頼していないからです クリスチャンは
その罠に決して陥ってはいけません もし自分の夫婦関係に
満足していないならば それが満足したものになるように
神に求めましょう アーメン、アーメン? 実際三日目に
神は夫婦関係に奇跡をもたらします 今年素晴らしいぶどう酒を
味わうことになりますよ ハレルヤ
神を讃えます 聖書で初めて
「愛」という言葉が出てきたのは 父の息子に対する愛についてでした そして愛という言葉が
2番目に出てくるのは そこから2章後の創世紀24章です そしてそれは
イサクのリベカに対する愛についてでした イサクは父に愛されている息子イエスを
象徴していましたね ではリベカは何でしょう?
キリストの花嫁である教会です つまり皆さんのことです 愛という言葉が
聖書で2度目に出てきたのは 息子の皆さんに対する愛について
だったのです それこそが他のすべての愛を生み出す
愛です アーメン 私たちは
この愛を理解する必要があります 結婚は
この愛を土台としているからです これがイエスが十字架上で示した
教会への愛です アーメン 私たちが彼を拒み 彼をのろい、彼をあざけり 彼に背を向けたのにも
かかわらず 彼は私たちの罪のために
死んでくれました そして私たちを愛してくれました 私たちのどんな行為も イエスに私たちを愛することを
やめさせることはできません アーメン 私たち人がその愛を実践するのは
難しいですね でもだからこそ
私たちは奥さんを愛するために 奥さんに目を留めるのではなく
イエスに目を留めて まず自分に対する彼の愛を
受け取るのです その時私たちはキリストが教会を愛したように
妻を愛することができます 奥さんたちも一緒です まずイエスに目を留めてこそ
旦那さんたちに従順であれるのです アーメン そしてイエスの愛に夢中になっている
私たちは イエスのためなら
どんなことでもします “私たちは愛しています” “神がまず私たちを
愛してくださったからです” それでは「三日目」が
聖書で最初に出てきた箇所です それがどこなのか
もちろん皆さん知っていますよね? それは創造の時です そこから何が学べるのか
今から見ていきましょう “夕があり、朝があった
第三日” これは聖書の一番最初の章
創世記1章の節です 三日目に何があったのでしょう? 神は三日目に
何を造ったのでしょう? または三日目に
神は何をしたのでしょう? “はじめに
神は天と地を創造しました” そして地は茫漠として
何もありませんでした 神は茫漠として何でもないものを
造ったりはしません 神はそんなことはしません 神が造るものには
必ず目的とデザインと美しさがあります 今何を言おうとしているのか
というと 神が天と地を創造した
1章1節と “地は茫漠として何もなく”
という1章2節の間で 何かが起こったはずだ
ということです そこには歴史には知られていない
文明国家があり それが洪水で
滅びたのかもしれません その洪水とはノアの洪水とは違う
聖書に書かれていない洪水です でもこれは真理ではなくて
一つの説にすぎません その文明国家をアトランティスと
呼んでいる人たちがいたり 様々な説はありますが
そこに何かしらの文明があったのは確かです それは神が
「人に地をリプレニッシュせよ」 つまり
「地を補充せよ」と命じたからです 「このコップに水を補充して」
と頼んだら それはそのコップに以前何かが入っていたことを
物語っています それがリプレニッシュという英語の言葉が
持っている意味です 元英語教師のリアン牧師
そうですよね ああ、ガブリエル牧師も
英文学の専門でしたね うん、カメラを彼に向けてください リプレニッシュという言葉には
そういう意味がありますよね そして神は人に「地をリプレニッシュ(補充)せよ」
と命じました ではそれ以前
地に人がいたのでしょうか? それは違います アダムが
神が造った最初の人間です だから地に何が満ちていたのかは
私たちは分かりません もしかしたら
その文明は今や 死そのものと
成り果ててしまっているのかもしれません または今となっては
悪霊と成り果ててしまった者たちが 当時その文明を
成り立たせていたのかもしれません でもそれが真に何であったかは
私たちには分かりません でもイエスが追い払った
レギオンという名の悪霊軍団は その地域を
離れたがりませんでしたね 彼らはまるでその地域が彼らに属しているかのように
振る舞っていました それが創世記1章1節と2節の間で 何が起こったのかを
物語っているのかもしれません はじめに
神が天と地を造った時 神が地を茫漠なものとして
造ったわけがありません だから2節に”地は茫漠として何もなく
闇が大水の面の上にあり” “神の霊が
その水の面を動いていた” とあるのは1節と2節の間に何かが起こった
ということです そしてそこに大水があったということは
そこに洪水か何かがあり その上を
聖霊が動いていたのです 私がここに立って
皆さんを見るときも これと似たようなことが起こっているのを
感じるときがあります 聖霊が皆さんの上を動いて
皆さんを癒し 皆さんに語りかけ
祝福を降り注いでいる 私が聖霊を動かすことはできません でも聖霊が動いてくれるとき
カオスから秩序が生み出されていきます 暗闇から
光が生み出されていきます 醜さから
美しさが生み出されていきます アーメン 不協和音から
ハーモニーが生み出されていきます それが聖霊が動くときに
起こることです そして3節
vayyomer Elohim これはヘブライ語で
日本語では「神は仰せられた」 Yehi ohr
“「光、あれ」” va’yehi ohr
“すると光があった” この”「光、あれ」”を
ヘブライ語で見ると 神がそこで自分の名前を発音している
ことがわかります Yehi ohrのYehは
Yud Heiでできています 神は聖書に記録された
最初の発言において 自分の名前を発音していたのです あなたは自分に神の名が付けられているのを
知っていますよね “地上のあらゆる民は
あなたに主の名がつけられているのを見て” “あなたを恐れるであろう” これは申命記28章の祝福の一つです アーメン 神が”「光、あれ」”と言うと
光がありました いや
でも三日目を見るんでしたね でもなかなかそこにたどり着けない だから私はたまにはセミナーをやるべきだ
と言っているんです まず午前の部が終わったら
休憩でランチを食べに行く そうしたらまた戻ってきて
午後の部を始める アーメン そうしたら皆さんは聖書学校で学べるよりも
多くを受け取れるかもしれませんよ 聖書学校の多くは
「何」を教えるけど 私たちは「なぜ」を
つまり舞台裏を教えようとするからです アーメン それでは今日はセミナーではないので
三日目です 三日目に起こったのは
これです “神は仰せられた
「天の下の水は一つの所に集まれ」” これはちなみに
裁きの水です “神は仰せられた
「天の下の水は一つの所に集まれ」” “「乾いた所が現れよ」”
するとそのようになった ここで神が「乾いた所を造ったのではない」という点に
目を留めてください 神はこう言いました “天の下の水は一つの所
(ヘブライ語でmaqom)に集まれ” 興味深いことに他の三日目にも
このmaqomという言葉が出てきます それはともかく神はこう言いました “「天の下の水は一つの所に集まれ
乾いた所が現れよ」” 神が乾いた所を造り
それが現れたのではなかったのです どうやら水没していた乾いた所が
現れたようです これは何の象徴ですか?
復活です そして三という数字は
復活を表しています このように三日目には
復活がはっきりと描かれています 裁きの水から
乾いた所が現れた そしてその乾いた所
大地こそが実り豊かさの土台です だから神はこの後で
種のできる草や 種の入った実を結ぶ木を
生じさせます これは死からの復活における
実り豊かさを表しています この”乾いた所が現れた”
という箇所の後にはこうあります “神は乾いた所を
地と名づけ” “水の集まった所を
海と名づけられた” “神はそれを良しと見られた” “神は仰せられた” “「地は植物を
種のできる草や種の入った実を結ぶ果樹を」” “「種類ごとに
地の上に芽生えさせよ」” “するとそのようになった” “夕があり、朝があった
第三日” たった今何を学びましたか? まずは最初の三日目に
「裁きの水から乾いた所が現れる」という 復活が描かれていることを
学びましたね イエスも私たちの身代わりとして
十字架上で裁きを受けて死に そこから復活して
また弟子たちの前に現れました イエスが私たちの身代わりになった
ということは 私たちのすべての罪は
十字架上のイエスと共にあったのです そして私たちの上に
下されるはずだった裁きは すべて十字架上のイエスの上に
下されたのです でもイエスが復活して
死から一歩を踏み出した時 彼はもう私たちの罪と裁きを
負ってはいませんでした そしてイエスを信じる時 イエスの今のステータスが
あなたのステータスともなるのです それは罪なき者であったイエスが
自分の罪のために死んだのではなく 私たちのために死んだからです だけど私たちはまとわりつく
この罪意識と共に生き続けてしまいます 「ああ、神にもう罪を犯さない」
と誓ったばかりなのに 「またすぐに罪を犯しちゃったよ」 私たちは赦された意識の代わりに
このような罪意識を抱いてしまいがちです でもそれはイエスが成し遂げたことに対する
侮辱になってしまいます アーメン とにかく最初の三日目に描かれていたのは
まず第一に復活でした そして第二としては 最初の三日目に実り豊かさが描かれていた
ということです 神は最初の三日目に 様々な種類の種のできる草や
種の入った実を結ぶ果樹を生えさせました 神は実り豊かさが大好きです 神はいつも
実り豊かさを求めています イエスはこう言いました 人が私に留まり
私もその人に留まっているなら その人は多くの実を結びます そしてその多くの実の中には
種があるので その実りは数え切れないほどに
なっていきます 人がイエスに留まり イエスもその人に留まっているならば
その人は実を結び さらに多くの実を結び
数え切れないほどの実を結ぶようになります 神は
クリスチャンの私たちが 人生のすべての分野において
実り豊かであることを願っています 創世紀1章の後半でも
神は”「人に生めよ、増えよ」”と命じています それはつまり一つの言葉にまとめるならば
「増殖しなさい」という意味です 神は
私たち人が増殖するための行為を 苦しみに満ちたものにすることだって
できました つまりセックスを地獄のような苦悩に満ちたものに
することだってできました でも神がそうしないでくれたことを
人は感謝するどころか それを悪用しました セックスによって子どもが生まれる
という仕組みは 神からの素晴らしい仕組みです 神はあなたが山を10回続けて
走って登ることができなければ 増殖できないと
定めることもできました または、あるめちゃくちゃ苦いものを
食べきることができなければ 子どもを産むことはできないと
定めることもできました でも神は夫婦間におけるセックス
という素晴らしいものによって 子どもが生まれる
という仕組みを作りました でも人はそのセックスを
夫婦間の外に持ち出し セックスに伴う快感を
散々悪用してきました 皆さん
よく聞いてください セックスを発明したのは
悪魔ではなく神です そして神はそれを
夫婦だけに許される特別な行為と定めました それは私たちが
最大の快感と幸福感を得ている まさにその時に子どもを授かる
という素晴らしい仕組みだったのです アーメン そのことを
ちゃんと神に感謝していますか? 「いや、セックスについて
神様になんて話せないよ」 神に対するその姿勢は
要注意ですよ ダビデは神に対して自分をさらけ出した
全てのエリアで勝利を得ました ダビデがどのように神に対して
自分をさらけ出していたかは 詩篇を読めばわかります そしてダビデが神に対して
心を開き 自分をさらけ出したエリアでは
その全てでダビデは勝利を得ました でも一つだけさらけ出さなかった
エリアがあります それがこの性的なエリアです そしてそのエリアにおいて
ダビデはつまずきました 神に対してさらけ出してはいけないエリア
などありません 夫婦間の性的な関係に不満があるならば
それをちゃんと神に話してください その不満ゆえに自分の伴侶以外を
求めることは愚かです その自分の伴侶以外との関係には
もっと大きな不満が眠っています あなたはその人のことを
全然知らないのだから 英語では良い感じで
韻が踏まれていたんですけど 日本語ではどうでしたか では最初の三日目に
話を戻しましょう まず第一に
復活が描かれていて そして第二に
実り豊かさがありました ここまでよろしいでしょうか?
ついてきてくれていますか? 神は私たちに復活を経験してほしい
と願っています 復活の話をするとき 私たちは携挙が 自分たちの肉体の復活の時であることを
知っています つまりそれは
肉体の復活の時でしかありません それは私たちが
すでに復活のいのちを得ているからです アーメン エペソ人への手紙には
「イエスを信じる私たちの内に働く力は」 「キリストを死から蘇らせたのと同じ力である」
と書かれています 私たちの内には
復活の力が働いているのです 私たちは教会で道徳ばかりについてを
話してしまいがちです もちろん道徳は大切で
それについては話されるべきですが それはクリスチャンのやり方で話される
必要があります でなければそれは人の頑張りによる道徳と
なってしまうからです そしてクリスチャンの
やり方とは常に キリストが成し遂げてくれたことを
理解し キリストにあっての
自分のポジションを知り その実を実らせるというものです 肉の行いによって
道徳的に生きるのではないのです 行いは自分の力に頼っていて
そこには限界があります でも実はいのちの副産物であり
その成長に限界はありません 戦いは
道徳性と罪の間にあるのではありません それは
いのちと死の間にあるのです いのちと罪の間にあるのです 神がエデンの園で「その木から取って食べてはならない」
と言った木は 善悪の知識の木でした そして善悪の知識とは要は
道徳のことですね そして道徳を教えるのが
律法です だから聖書は罪の力が律法であることを
述べています 神が「その木から食べてはいけない」と
言ったのは 「その木から食べると
人は神なしでも道徳的にいられる」 また「神なしでも自分の頑張りで正しく生きられる」
と勘違いするからです でも神は人が
いのちの木から食べることを禁じましたか? 禁じはしませんでした 神が禁じたのは
善悪の知識の木だけで 神は「いのちの木から食べてはいけない」とは
決して言いませんでした でもアダムとエバは
いのちの木から食べることはありませんでした ちなみにいのちの木は
イエスを象徴しています だから
イエスはこう言いましたね 「わたしがいのちです」 「わたしが来たのはあなたがたがいのちを得るため
それも豊かに得るためです」 イエスは「わたしが来たのは
あなたがたが道徳を得るため」 「それも豊かに得るためです」
とは言いませんでしたね 「わたしが来たのはあなたがたがいのちを得るため」
と言いました そしてそのいのちが
それに伴った実を実らせます 犬のいのちが実らせるのは
ワンワンと鳴くことです 猫のいのちが実らせるのは
ニャーオと鳴くことです アーメン 牛のいのちが実らせるのは
モーと鳴きながらうんちをすることです アーメンアーメン 人のいのちは
罪によって相当毒されていて 多くの罪を実らせます 例えば現代では大抵の人が
当たり前のように 汚く卑猥な言葉を
日常的に口から発しています でもそれが誰でもやっていることならば
それは安物です 貴重なものは
簡単には見つけられません どうかあなたもそのような言葉を口から発しない
貴重な存在になってくれませんか 周りの人に合わせる必要はありません
リーダーとなりましょう 神はあなたを
尾ではなく頭としてくれます 頭に尾を
ついて来させましょう 猫が自分の尻尾を追いかけ回しているのを
見たことがありますか 決して
捕まえられはしません でももし
その猫が尻尾を無視するならば 尻尾は勝手に
その猫についていきます 人に認めてもらおうと頑張るのは
もうやめましょう イエスを見つめて
彼についていくのです アーメン そして私たちに与えられているのは
犬のいのちではなく 神のいのちです 実際その神のいのちは エデンの園の時点でいのちの木を通して
人に提供されていました 何度も言いますが 神はその木から食べることを
禁じはしませんでした でも人は
そこからは食べなかった 神が人を造った時に
動き始めた心臓は 彼らが罪を犯した時にも
止まりはしませんでした その心臓はドゥドゥドゥドゥドゥドゥドゥと
動いていました エバを初めて見た時は
ドゥドゥドゥドゥドゥドゥドゥだったでしょう とにかく私が今言いたいのは あなたの心臓が
ドゥドゥドゥドゥと動いていたとしても そこに神がここで言っているいのちがある
というわけではないということです だから神は心臓が動いている彼らに
いのちの木を提供したのです アーメン ちなみに私が妻を見るときの鼓動は
ドゥドゥドゥではなく ドゥ…ドゥドゥです 時が一瞬止まるんです 今この教会にいるお医者さんたちが
こう言っているのが聞こえます 「え、それ大丈夫?
不整脈じゃない?」 妻を見て起こる不整脈は
大丈夫です 危険性のない良性不整脈です あー
メッセージの本題に戻んなきゃ みんな
ちゃんと集中してくださいよ 神は心臓が動いている人に
いのちの木を提供した つまりそこにはさらに高尚ないのちが
詰まっていたということです これは前にも
皆さんに話したことがあることですが 神は何年も前に
私に 食物連鎖のピラミッドのようなものを
見せてくれました そのピラミッドの底辺には
植物的ないのちとありました 私たちは皆植物が生きている
ということは知っていますね でも植物は
人のいのちは持ってはいません そして植物的ないのちの上に
虫的ないのちがあり その上に動物的ないのちがあり
頂点に人のいのちがありました それを見せた後で
神はこう言いました 「わたしが来て
君に与えたいのちは」 「このどのいのちでもない」 つまり神のいのちは
そのさらに上にあるのです 世の中の
まだ救われていない人たちは 救われるとは
教会のメンバーとなり キリスト教という宗教に加わることを
イメージしています イエスは「わたしが来たのは
あなたがたが決まりを得るため」 「それも豊かに得るためです」
とは言わず 「わたしが来たのは
あなたがたがいのちを得るためだ」と言いました イエスは悪い人を良い人にするために
来たのではなく 死んだ人を生かすために
来たのです “私たちは御前に生きる” 神は三日目に
私たちを立ち上がらせ 私たちは御前に生きます 私たちは「イエスを信じて
新しく生まれた」と言いますが それはどういうことでしょうか? 今それについてをできる限り
かいつまんで教えます そしてそれはあなたが何者であるのか
ということに関連しています 今から話すことは
黄金並みの価値がありますよ ジークムント・フロイトは
このことについて 「人の心には意識・前意識・無意識
という三領域がある」 ということを
提唱することしかできませんでした フロイトは脳よりも深いところに
何かがあることには気付いていました だからその脳ではない部分における意識を
前意識と呼んだのです だけどその何かをはっきりと
特定することはできませんでした 人はそのように
神秘をおぼろげに表現することしかできません でも神が語るとき
全てがアーメンです そしてアーメンとはつまり
「まさにその通りである」という意味です 神の語ることは全て確かです “これらのことを書いたのは” “永遠のいのちを持っていることを
あなたがたに分からせるためです” 「永遠のいのちを持っていることを
迷わせる」ためではありません “これらのことを書いたのは” “永遠のいのちを持っていることを
あなたがたに分からせるためです” 今自分を見てください 隣の人ではなく
自分を見てください 「いやプリンス牧師
どうやって自分を見るんだよ」 「私は今あなたを見てるよ」 その通り
無理ですよね あなたの目は自分を見るようには
デザインされていないのです あなたの目は他の誰かを見るように
デザインされています アーメン それなのに私たちは
自分のことばかり意識してしまいます 実際あらゆる悩みや鬱は 自分にばかり焦点を向けることから
生じています 自分のことばかり考え 自分のことばかり意識していると
それは負の連鎖になっていきます 自分を見ていると
もっと自分を見るようになり もっと自分を見るようになる そして大抵の場合
そのサイクルの中で 私たちが自分自身に見出すのは
悪いことや情けないことです 私たちは
自分から自由にされなければいけません それによって
精神安定剤や睡眠薬を手放すこともできるでしょう アーメン そしてキリストは
その自由を与えるために来てくれました アーメン 私たちは十字架上で
キリストと共に死にました この点を今一度
はっきりと伝えておきたいと思います イエスを信じて受け入れた人は皆 キリストと共に
十字架に架けられました イエスは十字架上で
私たちの罪を負っただけでなく 私たちの罪深い肉の性質も
負ってくれたのです そしてイエスが死んで
私たちもイエスと共に死にました イエスが埋葬されて
私たちもイエスと共に埋葬されました そして神が
イエスを死から蘇らせた時 あなたも新しく生まれたのです だから聖書は”キリスト・イエスにあって”
という言葉を用いています キリストにある人にとっては キリストに起こったことが
その人にも起こったことなのです それはイエスの復活も同様です イエスが死から復活した時
神はあなたのこともイエスの中で復活させたのです 神は
“背きの中に死んでいた私たちを” “キリストとともに
生かしてくださいました” そして神がイエスを全宇宙のど真ん中で
自分の右の座に座らせた時 その全宇宙のど真ん中がどこなのかは
知りませんが 神はキリストと共に
私たちもご自分の右の座に座らせてくれました 罪人だった私たちが
神の右の座にですよ 物乞いが王子にされたようなものです 肥溜めから
王座に移されたようなものです なんという恵みでしょう なんと信じられないほどの
恵みでしょう 愛に満ちた恵みでしょう アーメンアーメン ここで皆さんが誤解をしてしまわないように
一つ付け加えておきたいことがあります 私は次のような教えを
よく聞きます 「私たちはキリストと共に
十字架に架けられたのだから」 「生きているのはもう自分ではない」 「聖書には”もはや
私が生きているのではなく”」 「”キリストが私のうちに
生きておられるのです”とあります」 でもこれはあなたがもう存在しない
ということではありません キリストと共に十字架に架けられたのは
あなたの罪深い性質です でも神があなたの存在を消し去るなど
ということは決してありません わかりますか? あなたのユニークな人となりは
ちゃんとあなたの中に残っています あなたの人格も
ちゃんとあなたの中に残っています 真のあなたも
ちゃんとあなたの中に残っています この
“もはや私が生きているのではなく” “キリストが
私のうちに生きておられるのです” と言ったパウロは 同じガラテヤ人への手紙の後半で
こう言っています “よく聞いてください
私パウロがあなたがたに言います” パウロは
パウロのままだったのです パウロは”もはや私が生きているのではなく
キリストが…”と言ったけど それは別にパウロが自分自身を失った
ということではなかったのです 彼は自分自身の罪深い性質が キリストと共に十字架に架けられたのを信じて
そう言ったのです そして十字架に架かったものは 神の目にはもう存在しないものとして
みなされています それが十字架の働きです とにかく私たちが
それぞれの独自性を失うことはありません 次のような教えを
受け入れないでください 「あなたは重要じゃない」 「もう用なしだ」 「神はあなたたち皆を
もう十字架上で終わらせたんだ」 これは間違った教えです ヨハネも黙示録を書く中で
こう述べています “私ヨハネは
あなたがたの兄弟で…” ヨハネは
“私ヨハネは”と言いました 「誰だっていい私は」とも
「誰でもない私は」とも言いませんでした ヨハネも
ヨハネのままだったのです だから”私ヨハネは”と言いました “私パウロは” 私ジョセフ・プリンスが 今あなたにメッセージを語っています あなたはあなた独自の
人となりを失うことはありません 神は二人の同じ人を
造ったことはありません 神は多様性が好きなのです 私たちはよく「あなたが
それをやりたくないならいいよ」 「他の誰かがそれをやるから」
と言います それはイエスでもあり
ノーでもあります あなたがその役割を果たさないことで
神の王国はある意味何かを失っています あなたがキリストの体における
自分の役割を果たさないまま 超高齢になって
初めてそれに気付いたとしたら それまでの年月は
失われたことになります それはあなただけの損失ではなく
神の王国の損失です それは神の王国には
あなたにしか埋められないスポットがあるからです アーメン あなたは何であるのか
という話に戻ります あなたは霊であり魂を持っていて
肉体に住んでいるものです 霊と魂が
ごっちゃになってしまう人が多いので 魂を思考により近いものとして考えるのが
一番分かりやすいと思います ジークムーント・フロイトが感じていた
脳とは違うその何かが魂なのです 霊・魂・肉体
今この絵を見てください 霊・魂・肉体です 神は人を
三部構成に造りました それは神自身が
三位一体の神だからです でも神が
3つ存在するわけではありません 神は唯一です
アーメン この真理を表現するためには どんな例えも十分ではありません その例えが
例えば卵だとします 卵には殻があり、白身があり、黄身があり
三部構成ですね でも三位一体を語るには
不十分です その上で
三位一体の最上の例えは「人」です 人の三位には
それぞれ特別な機能があります それと同様に三位一体の神の三位には
それぞれ特別な役割があります でも神は唯一です 実はヘブライ語でも神を表す言葉は
複数形です Shema Israel, Adonai Elohim
Adonai Echad, Adonai Elohim. 「私たちの神、主」のElohimのimは
複数形を表しています そしてそれだけでなく
Elohim自身が創世記1章でこう言いました “「さあ、人をわれわれの形として
我々の似姿に造ろう」” 父・子・聖霊で
“われわれ”です 神の霊が動き
父が語り ことばがありました “すべてのものは
この方によって造られた” そしてこの言葉こそが
キリストです そしてことばは人となって
私たちの間に住まわれた アーメン
いいですね あなたは何ですか?
霊です 神が人に
息を吹き込むまでは 人の体は
ただマネキンのようでした アーメン だからその時点では
まだそこにいのちはありません それが肉体です そして神がそこに
息を吹き込んでいのちが入りました ヘブライ語ではvayipaです そのpaでは
息を強く吐き出します とにかく神が
人に息を吹き込んで 人は生きる者となりました ハレルヤアーメン 人はその瞬間神の前にひれ伏し
礼拝したことでしょう 人は神の似姿に造られた三部構成からなる
生きて動く存在です 三部構成といっても
三人いるわけではなく一人です でもその一人の人には
肉体があり その人は魂を持っていて
その人の中には霊が宿っています そして人は
霊によって神と関わります そして魂つまり思考を通して
勉強や読書などによって 世界の知性的な領域と関わります そして肉体を通して
握手したり食べたりと 世界の物理的な領域と
関わります 神はそのように
あなたを三部構成で造りました アーメン 今実は私は
ステージから落ちそうになりました 私の体が落ちそうになり そのことを
私の思考が私の体に伝え 私は足を引くことができました そしてどっしりと
安定して立つことができました その中で私の霊は私に 「メッセージの本題から外れてはいけないよ」
と言っています 今のも
イラストレーションだったんですよ もう一回やりましょうか? 早すぎて
きっと気付いていませんでしたよね 皆さんにも常に同様のことが
起こっているんですよ 私たちはもう当たり前のように
このように行動しているので 自分が三部構成であることを
意識することなどありません 「あ、落ちそうだぞ」 「おい
思考、思考、思考、思考」 「遠慮しないでどうしたらいいのか
指示を出してくれよ」 こんな風なやりとりを意識している
暇などありませんよね でもこれが一人の人の中で
起こっているのです それは父・子・聖霊が一つとして働いているのに似せて
人が造られたからです 私たちの多くは自分たちの霊という部分を
意識していません またはその機能さえも知りません だけど思考と肉体に対する意識は
ちゃんとあります ではまず
肉体の機能から見ていきましょう それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚
からなる五感です そしてその五感のそれぞれに
さらに細かい機能が分かれています 例えば味覚には塩味、甘味、旨味などを
見分ける機能があります でもこの絵に記している機能は
一般的な大きな括りとしての機能です では次に
魂の機能を見てみましょう それは思考、感情、意志です だからあなたが感じる
感情的なものは 魂の領域で感じているもの
なのです 神が「霊にあって歩みなさい」
と命じているのは 肉体に起こっていることを無視しなさい
ということでも 感情を無視しなさい
ということでもありません それらを踏まえながらも 霊がリーダーであるようにしなさい
ということです それでは霊の機能です それは神との交わり
直感、良心です 直感とは「調べてもいないのに何かがわかる」
というものです 例えば「なぜだかこのことが起こるような気がする」
と思っていると 本当にそのことが起こる または「なんだかこの人怪しいぞ」
と感じていたら 後々本当にその人が
良い人ではないことがわかった あなたは直感的に
このビジネスをやるべきではないと感じていた でも結局はそれをやることにして 何年にもわたる
痛みと苦労を経た後で ああ、あの時の直感に従っておけばよかった
と後悔している 直感は
そのように危険を察知させてくれます 例えば「この道を行くな」という直感を無視して
そこを進むと事故に遭う 直感は
そのように何かを感じさせます 私たちは2020年に この教会の牧師陣で
イスラエルに行くことになっていました そしてそのイスラエル行きのチケットも
もう購入していました でも私はそのイスラエル行きに
何か違和感を感じました でもその理由は
分かりませんでした これはコロナのニュースが
席巻する前の話です 私はただその時イスラエルに行くことに
平安を感じられていなかったのです そのことで
牧師陣はやきもきしていました でも私ははっきりと
その理由を伝えることはできませんでした そんな中で
コロナのニュースが世界を席巻(せっけん)します でもその時私たちは
イスラエル行きを断行していなかったので 大きな損失を免れました また相手側も損失を免れました 彼らが失ったのは
私たちというお客さんだけです でも私たちは今でも
イエスが実際に歩いたところを歩きたいですよ またそれが可能になる日を
待ち望みましょう そしてイエスが実際に歩いたところを
皆で一緒に歩くんです アーメン この教会の牧師陣は
そのように私の直感が働くのを目撃しました ちょっと
彼らの顔を映しておいてください 彼らはずっと「そうそうそうそう」
と言ってくれてますから これは
私の作り話ではないですからね この教会の牧師陣も
ちゃんとその話を覚えています その時の私に理由のわからない違和感を
感じさせていたのは 私の霊の直感が
働いていたからでした それは私の感情ではありません 私は行くのを
ワクワクしていました でも奥深くで
直感がNOと言っていたのです 私は世界の経済や
世界の政治の専門家ではありません また世界の情勢を
知り尽くしているわけでもありません でもそれを把握しようと 何でもかんでもしらみつぶしに
読もうとする人もいますが 私は直感に従うようにしています それは自分の霊に聖霊が宿っていることを
知っているからです ここまでよろしいでしょうか? ではこの人の三部構成を
もう一度見てください 肉体・魂・霊の三部構成ですね ここに
とても興味深いことがあります あなたの霊があなたの魂と肉体を治めるのが
神のデザインです 神はアダムが神と毎日話すことを意図して
アダムを造りました そして神は霊であり
私たちは霊とまことによって神を礼拝します 多くの人の考えに反して 実際は霊的な領域の方が
物質的な領域よりもリアルです いつかわかるでしょう 霊には実体があります そして霊の実体は 天使の実体のように肉体という実体よりも
大きく強いものです それはなぜだと思いますか? それは
それが永遠に続くものだからです 考えてみてください だからイエスが迎えに来るとき 私たちは言うなれば その霊の実体性を新しい肉体として
着ることになるのです それを今現在私たちの頭で
理解しきることは不可能ですが とにかく霊的な領域の方が
物質的な領域よりも リアルであるということを
知っていてください 世の中は「見えないものは信じない」
と言いますが 彼らは自分が見ている領域が
一時的なものに過ぎず 朽ちていくものであるということに
気付いていないのです でも本当は目に見えないものこそが
永遠に続くものなのです だから私たちは
悪霊を破壊することはできません 彼らは
霊的な実体を持つ存在なので 彼らは最終的には
火の池に放り投げる必要があります それは来るべき時に
神がしてくれることです 黙示録に
その火の池のことが書かれていますね 神が
彼らを滅亡させるのではなく 火の池に放り投げるのは
彼らの実体が永遠に続くものだからです ここまでよろしいでしょうか? では次にこのローマ8章に
書かれていることを見てください いや、その前に
やっぱりこちらを見てください 神は私たちの霊が
私たちの魂を導き 私たちの肉体を通して現れることを
願っています アーメン 例えば
あなたの思考はこう言っている 「彼には挨拶するな
彼は前、君に挨拶しなかったじゃないか」 「だから彼には挨拶せずに
ただ通り過ぎるんだ」 「そう、何も言わずに通り過ぎるんだ」 「彼は君の敵だぞ
君の陰口を叩いている」 「だから何も言わずに
通り過ぎるんだ」 でもあなたの霊はこう言う 「いや
彼は君の敵じゃないよ」 「彼が君に何をしたのかにかかわらず
彼は神の愛する子なんだ」 アーメン このようにあなたの霊は
あなたの魂を導こうとしてくれます そして多くの場合そうしたいと
感じられないようなことを促してきます だけど自分の感覚を責めないでください
感覚は感覚です 感覚は
感覚以上の何者でもないのです 感覚を
どうにか無視しようとしても 感覚は
どうしてもそこにあります その感覚わかりますか? アーメン でもその感覚に振り回されては
ダメです 例えば
人前で話すときに 例えば人前で話すときに
緊張してもいいです だけどその上で
聖霊に導いてもらいましょう ステージに立つことから来る
恐れや不安を 自分でどうにかしようとしなくて
大丈夫です むしろ大いに感じてください それを感じること自体は
問題ではありません だけどその上で
聖霊に耳を傾けるのです アーメン 感情はどうしたって
そこにあるものなのだから それを味わい
楽しみましょう それを無理やり抑え込もうとしても
ダメです それを責めても仕方がありません 感覚はただ感覚であり 感覚以上の
何者でもないのですから とにかく神はあなたが
自分の霊に耳を傾けることを望んでいます 神から切り離されていて
霊が死んでいる状態の人は 思考だけか肉体だけで
生きています 肉体だけで生きている人たちは
このような感じです 「今それが欲しいんだ」 「お前を倒してでも
それを手に入れてやる」 「あームカついてきた
殴ってやる」 彼らにとっては
そうやって全てが肉体で完結します そして霊が死んでいる人たちで もう一つのタイプは
肉体ではなく 思考ばかりで生きている人たちです 彼らはこんな感じです 「私は素晴らしく賢い」 「君が話すことは
どれも聞いたことがあることばかりだ」 「私はもう全部知ってる
そうだよ、知ってる」 「知ってる、知ってる、知ってる」
彼らは「知ってる、知ってる…」ばかり言います 彼らのあだ名はアイ・ノー
「私は知っている」です でも彼らの好きなゲームは
UNOです でも彼らはUNOをアイ・ノーに
変えてしまっています 「アイ・ノー」などというゲームを
やったことがありますか? ユーノー?
わかりますよね? とにかくその思考ばかりの人たちは
頭でっかちになっています 悲しいことに
聖書をよく知っている人たちの中にも このタイプの人がいます パリサイ人が
その典型的な例です 彼らは肉体ゴリゴリのタイプ
ではないですね 彼らは畑仕事などを
ほぼ一切やりません でも聖書の知識は
頭にぎっしり詰まっています イエスは彼らに言いました “「あなたがたは…聖書を調べています」” “「その聖書は
わたしについて証しているものです」” “「それなのにあなたがたはいのちを得るために
わたしのもとに来ようとはしません」” 彼らが持っていたのは
死んだ知識だったのです それは知恵ではなく
ただの知識だったのです 知識はただそれだけでは
人を傲慢にさせ 「私はあなたより聖書を知っているぞ」
というようなことを言わせます だけど重要なのは
あなたがどれだけ聖書を読んだかではなく 聖書がどれだけ
あなたを貫いているかです また聖霊によって
どれだけそこに光が当てられているかです それではこのローマ8章を
一緒に見ていきましょう “もしキリストが
あなたがたの内におられるなら” “からだは罪のゆえに死んでいても
霊は義のゆえに生きているのである” もう一度
先ほど見せた絵を見てください イエスを信じて受け入れて
新しく生まれたあなたの霊は もう生きています このことについて
ニコデモはイエスにこう質問しましたね “「人は…もう一度母の胎に入って
生まれることなどできるでしょうか」” 彼は新しく生まれるということを
肉体的に考えていたのですね それに対して
イエスはこう言います “「風は思いのままに吹きます」” “「その音を聞いても」” “「それがどこから来て
どこへ行くのか分かりません」” “「御霊によって生まれた者もみな
それと同じです」” ここでイエスは
「新しく生まれる」とは 聖霊によって霊が新しく生まれることである
ということを語っていたのです イエスは言いました “「肉によって生まれた者は肉です」” “「御霊によって生まれた者は
霊です」” ではどの部分が
新しく生まれたのでしょう? あなたの霊です だからあなたは救われる前に
青い目をしていたのならば 救われた後も青い目です 片方茶色で
片方青になったりはしません 聖書が
“だれでもキリストのうちにあるなら” “その人は新しく造られた者です”
と述べているのは 霊のことを指して
そう言っているのです 霊においては全てが新しくなり
全てが神のものとなっているのです だから私たちは皆さんが 霊の奥で聞こえるかすかな細い声を
聞くことを教えています 思考は
違うことを叫んでいるかもしれません 肉体は違うことをする欲望に
駆られているかもしれません でもあなたの霊には
神の霊が住んでいて あなたの霊は
神の声を聞いています ここまでよろしいでしょうか? 霊が
魂と肉体を導くべきです でもその人の霊が
神から切り離されていて死んでいたら 肉体か思考か肉体と思考の両方が
その人を導くしかありません それでは
この箇所に戻りましょう “もしキリストが
あなたがたの内におられるなら” “からだは罪のゆえに死んでいても
霊は義のゆえに生きているのである” そしてこの義とは私たちの働きによって
得られたものではなく 贈り物として与えられた
義です そうですよね?
違いますか? そして私たちは信じることによって
それを受け取るんですね パウロはこの復活の力を知ることを
人生で渇望していました ピリピ3章にこうある通りです “私はキリストと
その復活の力を知り” 今日のメッセージは
イエスの復活の力についてでしたね 私たちは携挙で
新しい肉体を与えられる前から 霊において
すでに復活を得ています その復活の力を知りたくないですか? 救われていながらも その復活の力を知らないままでいることは
できてしまいます パウロは「キリストとその復活の力を知りたい」
と言いました そして
ここにある”キリストの苦難”とは クリスチャンであるがゆえに苦しんだり
バカにされることです それを通るとき
あなたはキリストの苦難にも預かっているのです これは
あなた個人の苦難のことではなく キリストの名のために受ける
キリストの苦難のことです 周りの人があなたをクリスチャンだ
という理由でバカにするなら 胸を張って微笑みましょう “栄光の御霊すなわち神の御霊が
あなたがたの上にとどまってくださるからです” ではキリストとその復活の力は
どのように知れるのでしょう これの前の節を見てください そこにパウロの10節の言葉の
文脈があります “キリストにある者と
認められるようになるためです” “私は律法による自分の義ではなく
キリストを信じることによる義” “すなわち信仰に基づいて
神から与えられる義を持つのです” つまりキリストとその復活の力も
信仰に基づいて知れるものなのです 律法によってではありません ちなみに”律法による自分の義”とは
「律法を守ったから自分は義だ」というものです どんなものであっても 「神はそれによって自分を裁く」というようなものを
持ってしまっているならば それは間違っています それはあなたが神を知ることを妨げ
復活の力を経験できなくさせます 復活のいのちが
すでに内側に宿っているのに その力を知ることができないのです パウロはここでそれを得る方法を
次のように述べています “キリストにある者と
認められるようになるためです” “私は律法による自分の義ではなく
キリストを信じることによる義” “すなわち信仰に基づいて
神から与えられる義を持つのです” “私はキリストとその復活の力を知り” これはつまりあなたが 自分はキリストにあって神の義である
ということを知れば知るほど さらに神を知ることができるし 自分の内に宿る復活の力を知ることができる
ということです そして人々が
あなたを迫害するときも あなたは自分がキリストの苦難にも
預かっているのだと知り そこに喜びを見出せます ではこのメッセージを
締めくくっていきますが もう一度
先ほどのローマ8章を見てください 「プリンス牧師」 「ここには”からだは罪のゆえに死んでいる”
とありますよ」 その通りです でも霊は何とありますか? “霊は
義のゆえに生きているのである” ここに戦いがあります 私たちの肉体は
どんどん朽ちていきます ではそれを
どう埋め合わすことができるのでしょう? 今このメッセージの最後の数分間を
聞き逃さないでくださいね ステージに上がって
ガビリエル、エイドリアン、ローレンス いやガブリエルじゃなかった ガブリエルは座って ローレンスは来て そしてエイドリアンに
手伝ってもらうことにしましょう 肉体 誰を肉体のイラストレーションに
用いましょうか 霊と肉体の肉体の方には
誰を使いましょうか? 誰ですか
ローレンス牧師ですね なんでだろうね ローレンス牧師が肉体です そして彼が魂です 白い魂 そして彼が霊 やっぱり
霊が白い方がいいから 霊と魂を交換しましょう “霊は義のゆえに生きている” だから白の方がいいですね だから彼に
魂になってもらいましょう 彼は
彼ほどに大きくはありませんね 悲しいことに
これが多くのクリスチャンのリアリティです 彼らの中では肉体が大きく扱われ
霊が小さく扱われてしまっています 肉体がムキムキという人も
霊的な顕微鏡があるとして その顕微鏡で覗いてみると その人の霊は
痩せ細ってしまっていて 担架に乗せられてしまっている ジムに行って
こんな風に歩いてみても 霊が痩せ細ってしまっていたら
意味がないですね ダンベルを持ち上げる
彼の肩は隆々と タンコブの上にタンコブがあるかのように
盛り上がっている でもその人の霊は
ほぼ寝たきり 神の言葉をないがしろにし
日曜日には教会にも来ていないからです 彼は痩せ細っていなくて
健康的ですね 痩せ細った人を見つけられたら
よかったんですけど 旧正月の後では
それは難しいですね 彼は何でしたか?
霊です 体が死んでいる理由は
何でしたか? 霊が生きている理由は
何でしたか? ちなみに
この霊は聖霊のことではありません 口語訳では
その点が正確に訳されていて 聖霊に言及している部分は
“御霊”と訳されています でもこの10節は
“霊は義のゆえに生きているです” 「聖霊が義のゆえに生きている」
では辻褄が合いませんから 神が与えてくれた義ゆえに生きるようになったのは
私たちの霊のことです そして復活のいのちは
この霊のところにあります 神が与えてくれたすべての素晴らしいものは
すでにここにあります そして肉体と霊の間に
思考のある魂があります 今例えば
肉体が病気だとします または欲望からくる悪い習慣に
とらわれていて それが中毒となり
そこから抜け出すことができないでいる でも肉体を縛っているものが
何であったとしても 私たちの願いは
復活のいのちがそこに触れることです 3人はもうちょっと近づいて
立ってくれますか 霊・魂・肉体は
三つで一つですから 今気付いたけど彼じゃなくて
君が眼鏡をかけているべきだったね まあいいや
もう手遅れです 霊・魂・肉体
このままでいきましょう いいですね よく見ていてくださいね ローマ8章11節には
こうあります “もしイエスを死人の中からよみがえらせたかた
(父なる神)の御霊が” (つまり聖霊が)
“あなたがたの内に宿っているなら” “キリスト・イエスを
死人の中からよみがえらせたかたは” “あなたがたの内に宿っている
御霊によって” “あなたがたの死ぬべきからだをも
生かしてくださるであろう” 今素早く
あることを伝えたいと思います ここに書いてあることが
起こるのは イエスの再来の時だと
教える人たちがいます だけど先ほど読んだように
イエスの再来の時に起こるのは 死ぬべきものが死なないものを着ることになる
ということです でもこの11節に書かれているのは
「死ぬべき体が生かされる」ということです これはつまり今私たちが持っている
死ぬべき体についてを述べているのです この箇所は
「今」についてを語っています 「今」私たちはこの体で復活のいのちを
経験できるのです この節は
とても重要な節です ここでは三位一体の神の三位が
二度ずつ言及されているからです 三位一体の神の三位が
たった一節に二度ずつですよ “もしイエス(子)を
死人の中からよみがえらせたかた(父)の” “御霊(聖霊)が
あなたがたの内に宿っているなら” “キリスト・イエス(子)を
死人の中からよみがえらせたかた(父)は” “あなたがたのうちに宿っている
御霊(聖霊)によって” “あなたがたの死ぬべきからだをも
生かしてくださるであろう” 三位一体の神の三位が
一節に二度ずつ出てきましたね これは昼も夜もクリスチャンたちに向けて
語られるべき節です 私たちの体は
どんどん朽ちていきます 聖書にも「私たちの外なる人は衰えていく」
と書いてあります つまり体は
老いとともに疲れやすくなります また病気にも
なりやすくなっていきます そして欲望によって
この世の腐敗が肉体を蝕んでいきます これは霊ではなく
肉体のことです でも復活が肉体に触れる瞬間
欲望は打ち砕かれます 肉体は癒されます それは死が忍び込んだところに
いのちをもたらすのです 病気は言うなれば
「始まった死」です だから
その解毒剤は「いのち」です この11節は
私たちに将来与えられる もはや死ぬことのない体
についてではなく 聖霊が私たちの今の体 死ぬべき体にどのようにいのちを
もたらしてくれるのかについてなのです それを知りたいですよね でももうこのメッセージを
終えなければいけません でも皆それを知りたいですか? では真ん中で邪魔をしているのは
誰ですか うん、魂つまり思考です 思考が問題なんです 思考が邪魔してくるんですよ だからこれと同じ章の少し前の節には
こう書かれています “肉の思いは…
霊の思いは…と…とである” ここで”平安”と訳されているギリシャ語は ヘブライ語のshalomを訳すのに
使われている言葉です そしてそのshalomとは
穏やかな精神状態のことだけではなく 全ての分野における完全さ
のことでもあります それはdis-ease 不穏
disease 病気がない状態です 皆さん聞いていますか? では霊にある復活のいのちを
どう肉体にもたらすのでしょう? もう一度
このローマ8章10節を見てください “霊は義のゆえに生きている” “霊は”何ですか? “義のゆえに生きている” 私たちは聖霊に
肉体をも生かしてほしいですね 実際その働きには
三位一体の父・子・聖霊すべてが携わっているのです 11節には
三位一体の三位が二度ずつ出てきましたよね 「肉体の癒しは重要なトピックじゃないよ」
と言う人はよく聞いてください それについてを述べている
この節に 三位一体の三位がすべて
二度ずつ出ているんですよ それはともかくその上で
問題は私たちの思考です “肉の思いは死であるが
霊の思いは命と平安とである” そして霊の思いがいのちであるのは
なぜでしたか? “義のゆえ”でしたね そしてパウロは
ピリピ3章でこう言いましたね 「私は自分の義が
律法によるものではなく」 「信仰によるものであると知るとき
キリストとその復活の力を知る」 今これを見てください あなたはここにある復活の力を
こちらにも移したい でもそれを邪魔しているのがこの部分
思考です この思考という部分が
プリンス牧師のメッセージを聞いていない この点は突っついておかなければ
いけなかったんです とにかく「自分のメッセージをちゃんと聞いてほしい」
と言えるのは 聖書に基づいた教えをしている
という自信があるからです 世界中で良い聖書の教えは
たくさんなされています でも私は30年も生きてきたから
自分のことはちゃんとよく知っています 冗談ですからね その2倍ぐらいは生きていますよ とにかく
魂が問題だという話でしたよね 魂がなまけて
聖書を読みたがらなかったり 教会に行きたがらなかったりします その人の霊は救われていて
それが義ゆえにいのちとなっていても そのいのちが
肉体に触れることができないのは 魂が怠け者だからです 魂が霊の事柄を学ぼうと
しないからです “わたしの民は知識がないので滅ぼされる”
と神が言ったようにです そして思考が肉的なままでは
そこにあるのは死です この死は墓に入ることだけを
指してはいません 墓に入ることは
死の最終的な結果です そしてそこからさらに進んだ第二の死は
火の池です でも今私がここで言いたいのは
死がプロセスであるということです 何かをして普通に疲れることは
通常ですが 慢性的な疲れは死の始まりです また病気も死の始まりです そして私たちは薬を飲むなどして 医療的に
その死の埋め合わせをしようとします でも神の究極的なやり方は
義のゆえにその人の霊にあるいのちが その人の肉体にももたらされる
というものです 例えばその人が
ニュークリエーションチャーチに来て その人の思考が
霊の事柄を学んだとします あなたはニュークリエーションチャーチ
に来てますよね? 冗談に聞こえるかもしれませんが 自分が通っている教会を信頼できるのは
重要ですよ 信頼できない教会にどうして通うんですか?
そうですよね 私は今
自分の教会を宣伝しちゃっているのか そうだよ だって素晴らしい教会だもん アーメン 私は人生で主要なものそのほぼ全てを
ここで見つけました 奥さんだって
この教会で見つけたんです それはともかく
その人が教会に毎週来て その人の思考は
義についての神の言葉を聞くことができる ちなみに悲しくも多くの人の思考が
そのチャンスを得ていません でもこの人の思考は
それを聞き続けることで 自分がキリストにあって
神の義であることを知り 肉の思いから
霊の思いに変えられていく そして
霊の思いはいのちと平安です この時初めて霊からのいのちの流れが
電流のように思考に流れ それが肉体にも届きます そして肉体が生かされます
わかりましたか? 義のゆえにです 思考の意識が義の方に向けば向くほど
これが起こるのです これが
その人の本当の自分であり その本当の自分は
キリストにあって神の義なのです でもその人の思考がそれを知り
それを意識し そのことにいつも思いを巡らせて
いなければいけないのです 「私はもう古い自分ではない」 「私のアイデンティティは
もう罪人ではない」 「私はキリストにあって神の義だ」 アイデンティティが
罪人であるときは 何か良いことをしても 罪人であるというアイデンティティは
変わりません それと同様に キリストにあって神の義であるという
アイデンティティを得た今は 何か過ちを犯してしまった
としても 神の義であるという
根本的なアイデンティティは変わりません そしてそのアイデンティティを
意識すればするほど あなたから道徳的な素晴らしさが
溢れ返っていきます これが復活のいのちの流れです それが肉体における罪を滅ぼし
肉体における病気を滅ぼし 肉体の老朽化を阻みます これがその秘訣です 時間切れです 彼らに盛大な拍手を
ハレルヤ 今イラストレーションを
台無しにしてくれちゃいましたね 肉体が最初に行って 魂が次に行って 霊が最後だったじゃないか ちゃんと聞いてくれていたのかな 霊が最初に行って魂が次で
肉体が最後に行くべきだったでしょ 神を讃えましょう
ハレルヤ 今はその時間はないけれど 皆さんから寄せられている証の数々を
今ここで紹介できたら良いのにと思います それは自分がキリストにあって神の義である
ということを ただ宣言し続けることによって癒された
という証の数々です この教会では
そのような癒しが数多く起こっています アーメン
皆さん期待してください 三日目の真理についてのメッセージは
まだまだ始まったばかりです それでは皆さん目を閉じて
頭を垂れてください もしあなたが今日初めて イエス・キリストを自分の救い主と主として
信じて受け入れたいならば 今それができます “主イエスを信じなさい
そうすればあなたもあなたの家族も救われます” 今、私の後に続いて
祈ってください 「天のお父さん
私はイエス・キリストが神の御子であり」 「私の身代わりとして
十字架を背負い」 「あなたの手によって下される
私の罪に対する裁きを」 「その身に受けてくれたことを
信じます」 「そしてイエスは私の代わりに
十字架の上で罪となってくれました」 「それによって私は
イエスにあって神の義とされました」 「天のお父さん」 「イエスを復活の力で
死から復活させてくれてありがとう」 「イエスは今
私の羊飼いとして」 「私の大祭司として
私の主として生きています」 「お父さんありがとう」 「イエスの名によって
アーメン」 今この祈りを初めて祈ったあなたは
もう神の子どもとされています あなたの内側
本当の自分はもう新しく造られたものです 古いものは過ぎ去りました でもその現実が現れていくのは
プロセスです だから教会に来続けて
思いを一新させましょう 聖書にも
思いを一新することで 自分を変えていただきなさい
とあります 霊は瞬間的に救われたけど 思考が完全とされるのは
プロセスです そしてそのプロセスは
肉体にも影響を与えていきます それでは皆さん
立ち上がってください 神があなたをこれからの一週間 アブラハムへの祝福と申命記28章の祝福で
祝福しますように あなたはキリストとともに
天上に座らされているのですから 主があなたを、主が造られた
すべての国々の上に高く上げて 栄誉と名声と栄えとした
のだから あなたにそのすべての祝福が
これからの一週間注がれますように 神があなたとあなたの家族を あらゆる害や危険や
すべての悪の力から遠ざけ 完全に守ってくれますように 神が御顔をあなたに照らし あなたが行くところすべてにおいて あなたとあなたの家族に
恵みと好意を降り注いでくれますように 神が御顔をあなたに向け いのちと平安を
あなたの人生に降り注いでくれますように 主イエス・キリストの名によって それでは皆さんご一緒に
アーメン 神の祝福がありますように それではまた

今日、あなたも主の復活の力を体験することができます!このメッセージでは、プリンス牧師が聖書から、神様の力が既に私たちの内側に働いていることを分かりやすく教えてくれます。イエスの再臨を待ち望みながら、どうすれば勝利に満ちた日々を生きられるのかを学びましょう。私たちの考えが福音の真理と一致する時に、新しい力、豊かないのち、そして回復が与えられるのです。今すぐ、復活の力の中へ一歩踏み出しましょう!

エピソードについて:
2025年2月2日のジョセフプリンス牧師の「イエスの復活の力」のメッセージです。

00:00 01 はじめに: 私たちは預言の時を生きている
07:39 02 携挙の時に起きること
22:54 03 携挙の世代への神様の特別な約束
34:18 04 創世記1で明かされる三日目の重要性
47:56 05 神様の復活したいのちが内側に生きる!
56:09 06 霊、魂、肉体の違いは?
01:13:06 07 死に勝る力を手にする方法
01:25:17 08 救いと祝福の祈り


ぜひ証や記事、他のリソースを楽しんで下さい!
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このメッセージを聞いてあなたの人生の中で、イエスが行ったブレイクスルーをお聞かせください。こちらのオンラインフォームからお送りください。
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この動画の内容は、専門的な医学アドバイスと比較して優位とされるものではありません。もし愛する人が健康上の問題を抱えていたり、身体疾患を患っているとしたら、医師免許保持者や医療提供者に相談してください。また動画の内容は、薬の服用や治療の中断を促したり、それを許容するものではなく、そのような解釈をすることは一切お控えください。私たちはいかなる保証もせず、結果は個人により異なることを理解する一方、皆さんが健康面や医学的問題に関して神の知恵と導きを常に祈り求めるよう励まします。私たちは今後も信仰に立ち、神のみことばと信じるすべての人に与えられた癒しの約束を信じ、それを主張します。

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