『BanG Dream! Ave Mujica』(以下、『Ave Mujica』)に『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』(以下、『GQuuuuuuX』)、『前橋ウィッチーズ』……2025年上半期も、アニメは話題に事欠かなかった。各クール50本を超える放送本数を誇り、ポップカルチャーの一つとして確実に定着しつつあるアニメは若者世代にどう映っているのか。
リアルサウンド映画部では20代のアニメオタク3名が座談会を行い、上半期のシーンの動向について、“独断と偏見”だらけの率直な感想を語り合った。各々の好きな作品だけが集まった、偏愛にまみれたこの会合の問いは簡潔にただ一つ。「ぶっちゃけ、2025年上半期のアニメってどうだった?」
「日常」はどこにある?(日常系)
舞風つむじ(以下、舞風):何から話すか迷ったのですが、自分がよく知っていてかつ好んで観ている「日常系」関連の話から始めたいと思います。まず挙げられるのはやはり『mono』と『日々は過ぎれど飯うまし』『ざつ旅-That’s Journey-(以下、ざつ旅)』……個人的にはここに、『空色ユーティリティ』も含めたいです。主人公の一人である遥の立ち位置がわかりやすいと思いますが、「競技」としてのゴルフから降りつつもそれは否定せずに、みんなで楽しむものへとシフトさせていく姿勢が観ていてとても楽しかったです。
ホワイト健(以下、ホワイト):『mono』はハイレベルな正統派の「日常系」でしたね。高校生組と大人組という二つの軸のバランスがつりあっていて、視点がさまざまに移動しても一つの物語に回収されないからこそ成立している作品でした。
徳田要太(以下、徳田):作画も前衛的ですごかったですね。
ホワイト:作画はもちろんのこと、色彩設計や仕上げ、撮影などどれをとっても圧倒的でした。『小市民シリーズ』もそうでしたが、物語と画風、作風が完全に調和していて、かつクオリティが素晴らしい。しかもそれがソワネ初の元請作品だったことも衝撃でした。
舞風:個人的に『mono』は、教室や部室からすぐに駄菓子屋に移動し、そこにも長居しないことで「室内空間」の描写が思ったより少なかったことが寂しかったです。けれど逆にそれによって実際の風景を『mono』の世界のなかにたくさん取り入れることができていて、聖地巡礼に行きたいと思う良作でした。「旅」という観点で言うと自分は『ざつ旅』がお気に入りです。旅程がすごく適当で、ストーリーがあまり関係ない「日常系」っぽさを感じる。そういう雑味が好きなのかもしれません。
徳田:『ざつ旅』の行き先の決め方は「安価で○○する」のノリに近くて面白いですね。それはそうとちかとか『mono』の春乃は「お前ら仕事しろよ」って感じですが(笑)。
ホワイト:シンプルに本当にそうだ(笑)。『ざつ旅』は、原作マンガでも背景が実写風に描かれているんですよ。私はそれが魅力だと思っていたので、アニメで上手く引き継がれていたのはすごく嬉しかったです。お出かけ系という点では重なるところも多い二作品でしたが、「カメラに収める」というアナロジーによって風景をアニメ的リアリズムのなかに引き入れる『mono』と、リアルのなかにアニメ的な主体を位置づける『ざつ旅』とでちょうどよく差別化がされていると思いました。

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舞風:他にはメタ「日常系」として『忍者と殺し屋のふたりぐらし(以下、にんころ)』がありました。一方では日常が続いていて、他方でそれを維持するためにキャラクターが数十秒で消えていったり「闇バイト」的な殺し屋の仕事が進行していく。キャラクターに対する扱いの「雑さ」が、翻って他の「日常系」作品を際立たせていたなと感じます。
ホワイト:『にんころ』はすごくうまく社会風刺をやっていましたね。日本のアニメ作品でこれほどはっきりブラックユーモアの空気感を徹底できていることはあんまりない印象で、新鮮でした。
舞風:これまでそういう皮肉をやってきたのは『撲殺天使ドクロちゃん』や『じょしらく』など、水島努監督の作品だったと思っています。ただその場合も、社会風刺はしていても深入りはしてこなかった。『にんころ』はそこから上手く距離を取ったように感じます。

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徳田:僕も神アニメだったと思います。概ねお二人の意見に賛成なので基本言うことはないのですが、付け足すとすれば、さとこのキャラクターに三川華月さんの声が完全にハマり役だったことですね。さとこには味噌汁を作るにしても死体処理にしても、それらを同じモチベーションでやってしまうような恐ろしさがある。これが三川さんの能天気っぽい演技で表現されていることが素晴らしかったです。三川さんは春クールで『mono』と『にんころ』の主演を務めていて、大活躍でしたね。
舞風:自分は三川さんが演じた『アイドルマスター シャイニーカラーズ』の鈴木羽那が好きなこともあって、どちらも毎週いい声だなぁと思って観ていました。とても楽しかったです(笑)。

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ホワイト:その演技や描かれ方のフラットさが、オフビートコメディとブラックユーモアという二つの笑いを両立させるのに、ちょうどいいバランスを保っていたなと感じます。
舞風:他に「日常系」に連なる話として、やはり上半期では『けいおん!』『ラブライブ!』の流れを継承している『BanG Dream! Ave Mujica』は外せない作品の一つかと思います。本作はおそらく徳田さんの専門かなと思うのですがいかがですか?
徳田:やはり「春日影」が発明的だったと思っています。例えば『けいおん!』では歌を歌うことによって脚本的なカタルシスがあり、かつ絆が再確認される構図がありました。「春日影」は、それと真逆なんですね。歌詞はメンバーの仲を歌うものだし、絆が深まるはずのシーンで登場する曲ですが、演奏は成功するのになぜかバンドが瓦解するというのをひたすら繰り返していました。いわば、日常系がそもそも成り立たないところからその上でどうするべきか、音楽アニメは何を描くべきかというところに足を踏み入れ始めたのが前作の『It’s MyGO!!!!!』と『Ave Mujica』だった。『ラブライブ!』を中心とした学校生活と音楽をめぐるコンテンツが2010年代を通して成熟した時期に、この二作品とメタアイドルものとして『トラペジウム』のアニメ化が重なったのは面白い現象だと思います。

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舞風:『ラブライブ!サンシャイン‼』発のAqoursも、6月に最後のワンマンライブを迎えましたね。自分も参加して号泣していたのですが、一つの時代の終わりを感じました。『けいおん!』や『ラブライブ!』が日々のいとなみを通して描いてきたような、唯一性のある関係だと考えられていた共同体が、むしろ極めて一般的かつ脆い存在であることが「春日影」を歌うことによって浮き彫りになってしまう。「春日影」をやった第7話は、他愛のない日常が奇跡的に成立していた瞬間を描いているという意味で一つの転換点なのかもしれません。
徳田:興味深いのは、それをメディアミックスを用いて強調したことです。第7話の直後に、「春日影 – From THE FIRST TAKE」が公開されているんですね。一回きりのパフォーマンスを謳う「THE FIRST TAKE」で「春日影」を公開することそれ自体が、この成功が一回きりのもの、一瞬のものでしかないことを体現している。プロモーションのためだけではなく、作中の世界観を強化するために「THE FIRST TAKE」を利用したのは本当にすごいと思いました。
ホワイト:私も『Ave Mujica』は大変興味深く観たんですが、それぞれのトピックが次から次へと移動していく中で、根本的な解決とは言えないかたちに落ち着いたままストーリーが進んでいってしまったようにも思います。ただそうした要素が複雑かつ密接に絡み合っていて、それが一つの物語として混沌とした激情を表現しているのがこの作品の良さでもある。続編も決定しているので、楽しみに待ちたいです。
いや、多分ガンダムもそうは言ってない
舞風:『Ave Mujica』の目まぐるしさというのは、一方で視聴者を毎週ひきつけることにも一役買っていたようにも思います。毎週話が大きく変化していくことでSNS上の話題性を保つ……そういう方針で春に話題になったのが『前橋ウィッチーズ』と『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』でした。この二作品についてはどうでしょうか?
徳田:SNSに入り浸っているタイプのアニオタとしては、この二作品がいわゆる「行間を読め」問題で話題になっていたのが面白かったです。まぁ「“行間”ってなんだよ」という話でもあるんですが、いずれにしろ正反対の意味で象徴的だったのがこの二作品だと思います。まず『前橋ウィッチーズ』は比喩的に言えば「行」しかないというか、吉田恵里香さんの構成に非の打ち所がないのでほぼ「完全に同意」と思いながら観ていました。逆にそれゆえに、話題性のわりにあまり自分では感想を言っていなかったと思います。
ホワイト:私は『前橋ウィッチーズ』は、特に歌唱シーンのカメラワークや構図、キャラクターの描き方がプリキュア的な「ニチアサ」の魔法少女ものの文脈の上にあるような気がしていて、その流れで行間をすべて描いている点も引き継いでいるなと思って観ていました。
舞風:その話は面白いですね。自分は製作がバンダイナムコフィルムワークスということもあって、『ラブライブ!』シリーズの歌唱シーンを思い出しました。『前橋ウィッチーズ』で3DCGが用いられているときって、結構歌詞と口の動きが一致してるんですよ。これは『ラブライブ!サンシャイン‼︎』や『ラブライブ!スーパースター‼︎』との近さがある気がします。

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徳田:『GQuuuuuuX』については「“行間”がちゃんと読み取れればマチュの行動原理もわかる」派閥と「描写が淡泊・性急すぎてマチュがおもちゃになっている」派閥がいたと思うんですが、これはどちらにしても“確固たる動機”なるものがキャラクターに存在すべきだということを自明視しすぎている気がします。別にマチュくらいの年齢の子は自身の行動原理を明確に自覚していることのほうが珍しくて、むしろ無自覚に「“確固たる動機”を抱いてみたい」と考えている年頃ではないかとさえ思います。だからマチュに関しては内面描写が足りていたかどうかという話ではなくて、そもそもなくてもいいんじゃないかと思っていました。
舞風:『GQuuuuuuX』の話で言うと、自分もマチュの行動が無軌道であることそれ自体は問題ないというふうに思うんです。監督の鶴巻和哉さんとシリーズ構成の榎戸洋司さんのタッグはしばしばそういうキャラを描いてきたわけですし。ただ、やっぱりマチュの「地球」に対するぼんやりとした憧憬に対して、国際指名手配という代償はさすがに大きすぎる。いくら無軌道な少女でも、やはりそこまで行くには明確かつ一貫した動機や衝動が必要だったと感じてしまいます。徳田さんがおっしゃる通り、この作品は「文章(=行)」それ自体があまりない。例えばマチュの内面については、確かにある程度予測できます。けれどそれは、文章がほとんどないからいくらでも想像が広げられた部分もある。自分はある程度の文脈があるうえでその間を矛盾なく補完することが「行間を読む」ということだと思うので、『GQuuuuuuX』で行われていたことはそれとは若干ずれていた気がします。
ホワイト:私も同じ感覚ですね。子供組の動機が曖昧なことそれ自体はいいんですが、逆に策略をもって動いている大人たちや、それによって動いているストーリーの詳細がすべてデータベース的な部分に依存している。ただ、こうした点からマチュやニャアンが自分たちの衝動のままに動いているとは、必ずしも言えないと思います。そもそもニャアンについては、終盤で「私もう、どこにも行くところがなくなっちゃった……」と言ってることに象徴されていると思いますが、居場所や庇護者(保護者)を求めていることが常に示されていますよね。他方でマチュはそういう動機が見えづらいので批判が起こるのも納得はできます。大人と子供の対比として、二つの視点を描き分ければ、鶴巻監督的な面白さがもっと際立っていたような気がします。

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徳田:舞風さんの「動機のなさに対して代償が大きすぎる」という話で言うと、近年は「闇バイト」などが象徴的なように、「動機」と釣り合わない過激な世界へのアクセスが情報技術によって簡単になりすぎているきらいがあると思います。だから制作陣が自覚的だったのかはわかりませんけれど、マチュのあの当事者性のなさは、結果的として赤裸々なかたちで「現代っぽかった」。
ホワイト:僕は逆に、「クランバトル」によって戦争とマチュの行動が滑らかにつながりすぎていることに対して感情移入できなかった気がします。世界各地で戦争が起きているいま現在、目の前のそれに対してできることがないという無力さのほうが「戦争」というテーマのアニメを観るときに共感できる。いわゆる「セカイ系」というジャンルでは、そうした世界と自分の間を繋ぐ中間項が抜け落ちていることが重視されてきたと思うのですが、ある種その旗手としてあったカラーという制作会社があえて「個人」と「戦争」の延長線が交差するクランバトルに尺を割いたことは大きな変化だなとも思いました。
舞風:今のお話を聞いていて、それは『ガンダム』的なひたすら史実やリアリズムを突き詰める側面と、セカイ系的なそれを飛び越えることのカタルシスが衝突してしまったということでもあるのではないかと思いました。そう考えると、「クランバトル」というモチーフの立ち位置も見えてきます。自分はクランバトルを『機動戦士ガンダム エクストリームバーサス』的な対戦ゲームに近いものとして受け取っていたのですが、実際にはシイコを筆頭に「死」と隣り合わせの戦いでした。容易に人が死んでしまうという点は、マチュと「戦争」をつなぐ中間項として大事だった気がします。
