『遠い山なみの光』は広瀬すずと二階堂ふみが最高!戦後映画の新たな金字塔になった理由【ネタバレ感想/レビュー】

遠い山並の光のネタバレ感想を行ってきたいと思います。 はい、お願いします。 どうでしたこれ? いやあ、ふんわりとね、いい映画だったなって感じがしましたね。 はあはあは。 ま、ちゃんとアート映画じゃなくてストーリーがある話だから退屈には感じなかったし表面的には分かってはいるんですけど、大体の話は。 はい。 でももっとぐっときたかったなってのはありますね。 うん。 色々後で考えて分かりました。色々 ミステリーっていうかミステリーなのかみたいなね、 ところもあるんで。 なるほどね。 最終的にそのどういうみたいなね、そこにだから実は焦点はないんですよね。この映画はそのミステリーで何が起こったのかみたいなものってよりはこの記憶をなんでこの人はこういう記憶になったんだろうみたいなね。そこなんですよ。だから人間ドラマなんですよね。やっぱりね。うん。 うん。その辺をね、やっぱり言ってきたいんですけど。 ほう、ほう、ほう。 あの、僕はね、これはね、端的に言うとこれはもう傑作だと思います。 ああ、なるほどね。 決索と 決作です。もう今年の方がでば本当にトップレベルだと思います。 うわあ。まあ、確かに演技とかすごかったからね。 そういうエタメ性もちゃんとある。 そうだね。 うん。こう要は記憶がどんどん濁していくという 話なんですよね、これね。うん。 だからそういう割りきれなさというか、 そういうところに同化してくって大験がすごい大事だなと思うんですよね、これ。 ほう、ほう、ほう。 で、もう1つは それがじゃあなんでこの戦後の長崎 うん。50 年代の長崎を描いたのかと。 うん。で、それをしかもなんでイギリスにその後渡った女性の目線で描いたのか うん。うん。年代、80 年代、長崎とイギリス。 うん。うん。 そしてこの映画はそれを混濁させるというね、 え、手法を取った。つまり原作は落ちはあんな明確じゃないんですよね。 そうなのかもぐらいなん 感じなんだけど、明確にこれこんなくした存在として描いてる。な んでそうしたんだと いうところがすごい大事うん。うん。 だし、しかもっと言えばこの映画が戦後 80年というね。 今年作られた。 はあは ということもそこに内放されてくるという。 うん。 はすごいとんでもない意義のあることと、 あとはそれを映画でこの世代が描くってことにすごい意義があるっていう はいはいはい 作品だと思うんですよね。 あえ、だからなんかよくわかんないけど うん。な んだろうこれみたいになってくの面白さと それが実は超大事っていう ことですね。そこをすごく僕は重点的に行っていきたいんですけど。 なるほどね。いや、ま、でもエンタム性で言うとやっぱ演技はすごかったです僕は。 ああ、まずそこだよね。 うん。 いや、そこですよ。本当瀬鈴さんと 2階さんのこの2 人は筆頭にしてね、みんなすごかったなと思いますし。 そうね。 やっぱなんかこのなんか広瀬鈴さんのその受けのね感じ、その基本的に周りからその言われたことをやるような感じでちょっと自分のやり方いこともあるけどちょっと押し殺しているような まあだからあの時代の女性のっていう そうそうそうそう受けっていう感じのね演技っていうのがあり そうあえての受け芝居いっていうところがすごいいいですよね。 そうそうそう。聞いてる感じずっとみたいな人の話をただ聞くみたいな。 そうそうしてそれと対象的にもうね、 2階さんの なんかもうあの強い感じ うん。 強いなみたいな。 だから受け身に対してこっちはもう攻めというか 攻めで行くよねみたいな。 このね2 階踏がもう僕は素晴らしいなと思いましたね。 やばいよね。 うん。とんでもなく素晴らしいなと思っ やばいよね。 これはね、あのもまさしく 50年代の 映画女優なんですよ。 トーンが完全に。ああ、 ま、それこそ黒沢明とか そのだから50 年代の映画から飛び出してきたようなね、 感じがするんですよ。そっくりそのまま。 凄まじかったね。 で、それがつまりこの彼女がですね、ま、自分の娘に対してだけど アメリカに渡れば女優にだってなれるかもしれない。 はい。はい。はい。 そこがちょっとこうこだましてくるというかね。あ、 つまりこうなり得たかもしれない未来みたいなのもちょっと匂わせてくるんですよね。あの芝居に。 うん。うん。 うん。 だから広瀬があえての受け芝居に回って 2階不のこの力強さを極立てるという このバランスがですねわけよね。後輩になってね。 聞いてくるね。 うん。つまりそのさ子さんがこんなにね攻めでね、 もうしたこじゃねえよ、みんなっていう感じで行かなきゃいけなかったそのバックグラウンドみたいのが だんだん匂わされてくるという 構図になってんですよね、これね。 うん。うん。最後の2 人がその同じだったみたいなさ、 ところに関しても何にもうまいなって思うのは僕はあの 2人が 結構その全然違う世界に生きてる 2 人だなみたいな感じがしてたんですよ、最初見てる時。 でも結局は2 人は同じだったなって思ったんですよ。映画見終わった後に。そう、そう。だからそのえ子の方はその広瀬すずね。広瀬すずは小畑県に行ったことによって環境が変わってそのままいい感じになったじゃないですか。経済的にもさ、困らなくなったと。 はい。 で、でも結局子もそういうその道を辿っていくわけじゃん。 うん。うん。 だからこのルートとしてはその自系率がちょっとずれてるだけで結局はどっちも同じなわけじゃん。 うん。うん。うん。 だからああいうラストに説得力がその出てくるというか、 その最初2 階の風に引っ張られる役なんですよね。 引っ張られてる。 うん。で、あ、なんか私もちょっとなんかそこにシンパシー感じちゃうかもみたいな。 そうね。ね。 うん。 つまりそのエスコもその今でこそやっぱりそのね夫とかま、助けてくれるね、あの岐阜とかも 恵まれてるんだけど でもなんかやっぱりそこに違和感というか私はこの人生にふさしいのかっていう疑念があるわけですよね。ずっとね。それはそのバイオリンのシーンとかでもあるわけですけど私のせいなのにって うん。 っていうのがずっとあるから彼女にシンパシーがあるわけだし、その同じ被爆をしてたというのがあるわけで、ま、それ多分には言ってないんだけど だからじゃあその環境次第で 私がこうなったのはうんじゃんっていう つまり私が被爆してることをみんなが知ってねたらじゃあ夫は来なかったのかっていうことだし、ま、そういう疑問があるわけですよね。うん。 だから本当に運命のちょっとした違いでしかないじゃんっていう。 そうね ことをずっと彼女はあれでしょ?自文自してんですよね。ずっとね。 自問自ですね。まさに。そう、そう、そう。 だからこの人生で良かったのか私っていうことをずっと思ってて、だからこそ 2 人が一緒でしたってなった時にああなるほどっていうかすんなり行くんだよね。 うん。そうね。 そう。だから受け芝居でずっと審を感じる役だったのが でもそれは内心え越え越子にくすぶってたものだったというね。さち子っていうものは だからイギリス行ったんだと。 そうそうそう いう同線にすごいあの2 人が一緒だったってことでスムーズにあとこう全部繋がるみたいな。 そうだね。 うん。 だから受けと攻めっていうよりかはなんかもう 2人は一緒だったんだって。 そう、そう。最初から一緒だったって。1 人の人格なんだっていうのがすごい納得がいくというかね。それでね、いつか誰にも話せなかったわけですから。 だからやっぱり心の中でそのイマジナリーな存在をその見い出さないともうやってけなかったんだろうなっていうのがすごいわかるんですよね。 うん。 だからそういう意味でもなんかさチ子の存在がそういう存在だったっていうのはええとはなんなかったんですよ。だっぱドで返しってさ、えってなりがちじゃん。 んだったのみたいな 驚かせるために そうそうそうそう やっちゃうみたいのあるよね。 そうそうそう。じゃあもう何でもありじゃんみたいに多分ミステリーだけでこの映画を追ってる人はそうなっちゃうと思う。 だけどま俺的には個人的にはそうだったのねっていうやっぱツ子は誰にも話せなかったしで話したい相手が必要だったんだよなみたいなっていうのはなんかすごいい納得がいった感じだったんですよね。あの落ちは。 だから思い返した時にね、このだからさ子さんを思い返した時に我々がうん。 うん。うん。うん。 なんか非常にこう胸に来るものがあるというかね。 ああ、そうね。 うん。だから彼女がすごい眩しく見えてたってのはどういう意味を持ってたかっていうことですよね。で、あのピクニックの会話とかうんうん。はいはいはい。 っていうのでなんか思い返した時にああってなるみたいなね。 ところがいっぱいある。だからこのミステリーだと思って初めから終わりまで見ちゃうとっていう話はあったけどでもやっぱり最初はそうやってミステリーとしてね、つまり何が起こったのかっていうことじゃ。ミステリーってのは。 うん。それはすごい客観的に引っ張ってく話じゃない。ミステリーって。 でもそれはだんだんその客観を入り口に うん。うん。 主観的な話になってくんだよね。この人の中では何が起こってたのかっていう、つまり記憶の話になってくという。 はい。はい。はい。 そのなんかこうグラデーションがすごいいいなと思ったんですよね。 うん。ま、いつの間にかね、自分もそっち側に行っちゃってる感じがね。 そうなんですよ。これは僕がよく言うやつじゃないっていう。つまりその映画というのは何回も言うけど、最初は客観で見るんですよ。なんだこの話みたいな。でもなんかだんだんそれがこう混濁して記憶が で、こう、あの、2人が1 人だったみたいな話になったりとか、そして映画自体もでなんかすごいね、いろんなところとなんかイメージがこうしてくというね。 あって、その後に最後にあ、結局こういう話だったんだと、つまり客観で何かを解け明かす話だと思ったら、 この人の主観に寄り添う話だったと。 このグラデーションが非常にいいし、非常にこのテーマに即してるなと。 うん。 思ったんですね。 そうですね。いや、それ思いましたね。 うん。 やっにやった自分の行っと隠したりとかして逃げたりとかしないでちょっと受け入れて前に進んでいこうよみたいな 希望はその過去とかにあるんじゃなくて今そこにあるんだからみたいな 感じがしたわけですよ。見終わったとね。でもっと言うとまあなんかその自分をその受け入れてくれる他者がいることは希望だよねみたいな。 そういうのをま、見わっとと考えて感じたんですよ。 うん。 コミュニケーションの映画だなと思ったんですよ、これ。 うん。 子とかは誰にも話せないわけじゃないですか。自分のそういうんなうちにすぶってる気持ちをね。 ていうのはもう明らかじゃないですか?てで俺はでもそれでもう 1 個それに説得力を持たしてるなと思ったのがその小型の政治とかさ いうのキャラクターもちょっとそういう負があるんですよね。 うん。うん。 うん。やっぱ政治も自分が過去にしたその行動が正しかったのかどうなのかっていうのを悩むじゃないですか。 うん。 で、それが、ま、原のその謝った教育をしてしまったってことだと思うんですけど、 国のために死ぬことは良いことだっていう。 そう、そう、そう、そう、そう。で、それを言っちゃったわけだからで、それについて、ま、いいのか悪いのかっての悩んでて、で、ま、そのシーンがさ、いっぱいあるわけじゃないですか。 はい。 だから、ま、子にも言われてましたけど、ま、変わっていくんで、ま、あなたも変わっていきましょうよみたいな こと言われたから、ま、やっぱそういう風にその自分が過去にやってしまったことは、 ま、受け入れて先に住んでいくしかないんだっていうのは越え越え子にも感じるし、政治の物語を見てもすごいそれはなんか感じたんですよ。 うん。うん。 だから結構そういうのをやりたいのかなって描きたいのかなってのは思ったんですよね。 うん。そうね。 ま、そういう意味ではそのえ越え子とさ子っていう 2人が、ま、結局1人でしたみたいな 話も、ま、要は最初は観的というか、つまりそのあの時私はこうで、で、その中にあれでしょ?分裂したもう 1人の可能性というか、 くすぶってたものとして客体として出てくるんだけど、そういうものをだんだんこう統合してく過程とも見れるというね。 あ、 ことですよね。折合いをつけてくというか。 で、その折合いをつけて、あ、そうだったのねってわかる。それは観客も分かるし、え、 2期も分かると聞き手である。 そう、そう、そう、そう。 それが、え、ある種そのあなたのせいじゃないよと慰めるっていうラストである種こう前進するというか、救われるというか、そういう構造になってるっていうそう。 うん。うん。うん。で、ずっとずっとその越えツ子が誰にも話せなかったことをちゃんと聞いてくれる実際のリアリティの存在が出たっていうのがめっちゃ希望だなと思ってて、で、さらにそれが自分の娘だったわけじゃないですか。 はい。はい。はい。 だからそのやっぱ日本っていうの飛び出して長崎を私はここの地に来たけど、ま、でも、ま、自殺しちゃったしとかはい。 そういうのでこに来た。 たこと自体間違いだったんじゃないかなってすごい思ってたじゃないですか。 熱子がね。うん。 だけど2 期にあなたのせいじゃないよって言われたことはもうここに来ないとできなかったことでしょ。だって そうね。うん。 だから今この時点で言うとめちゃくちゃ希望だなみたいな感じがしたわけですよ。 で、もう諦めてたピアノとか音楽をやるみたいなね。 まあ、なんかすごい希望に満ちた感じがするじゃないですか、あそこは。 そうだね。 うん。だからそれがこの映画の中で 1 番なんか結構力点を置いて伝えたかったとこなのかなって感じはしたんですよ。 うん。それはそうだと思いますね。 うん。ていうのはめっちゃ後で考えてそうな。 めっちゃ後で考えてね。 これさら言ってるけどめっちゃ考えてます。 3 時間ぐらい考えてるこ。 まあね、 あの瞬間には伝ってません。 難しい。ちょっと難しいよ映画では。 そう。いや、でもね、なんかうまいと思うんですよ。 そのなんかその私がここに来て良かったのかどうかみたいなのってその外国に行ってそれでめちゃくちゃ金銭的ボろくて何にも僕行きませんでしたみたいなもうカツカツですみたいな感じで描かれてたらなんかその最後あのなんか 2 期から褒められたりしてもいいやダメでしょこれみたいないなんか全然なんかうまくいってないじゃ結局みたいな感じになっちゃうと思うんですよ。だからあんま入りえないと思うのね。 うん。 だけどやっぱ表面的にはその俺らが判断する基準を全部クリアしてるってのがうまいなと思うんですよ。その 2期も言ってたけど なんかここ喉かなみたいなってたらいいやいや金持ちのとこじゃみたいなあなた金持ちのとこに住んでるでしょみたいな言われてたからまつだから行って成功したわけですよ。 うん。 ああ。 だけど彼女自身は全然それはなんかオッケーだと思ってないっていうね。そこのバランスさじ加減がいいなと思ったんですよ。 うん。うん。ま、だからその複雑性というかね、割り切れなさというか。 そうそうそうそうそうそうそうていうのは思いました。 それはだからうん、そうなんですよ。だからその最後の稽古の部屋の 2 人の寄り添いってとこに向かってく話ではあるっていう。 そうですね。で、僕が、ま、そこにさらに加えるんであれば、 ま、被爆世代を被爆2 世の世代があるし肯定してやるみたいな ね。 そういう構図に見えるっていうか、ま、そういう部分もあるんだけど、そこはね、僕はね、もっと複雑なものがあると思っていて、 ここでね、あの、やっぱりポイントとなるのが うん。 じゃあ、2 期のあの、妊娠の設定何みたいなね。 いや、思った 話とか。 の関係あんの?あれ?俺の理屈何もいらないし。 そう、そうなっちゃうじゃん。うん。とか、あの、実は不倫してるとかね。 それ何なのってなるでしょ。 とかさ、あの、最初になんか2 期が記事にしてた運動とかね、あれ半覚運動ですけど、実際にあったね、女性たちの で、女性は目覚めねばっていう話とか、あ、 その辺何人みたいなね、こになる。 うん。なんかさ子が言ってたけど目覚めて言ってたよ。言ってたけどちょわかんない。 そうなんですよ。 で、そこも拾うんであればもうちょっとこう広い話になるかなと思ってて、 [音楽] ここでね、すごい大事になってくるのが、つまり客観と主観という話が出てくるんですよ。 [音楽] で、この映画は非常に最初客観と主観っていうのを意識させるような導入になってる。つまり聞き手と 語り手がいるということですよね。 で、この映画自体は基本的に階層で話が進んでいくと最初映画を見に来た我々はそれをだから、ま、 2 期の側に立ってね、聞いてとして、ま、それを見るわけですよね。 うん。 だからその時点では、ま、完全にこの聞き手と語り手っていうのは、ま、分離されてると。 で、これがだんだんだんだん、ま、それはあかも、え、越え越え子とさ子が一体化していくかのように この語り手と聞き手っていうものもだんだん混濁していくというあ、 作りをしてるんですね。これ 知ってましたっけ? 例えばね、こう非常に細かいニュアンスなんだけども、 あの最初はさ、インタビュー取材という手でちゃんとお母さんが喋り出すとその長崎に飛ぶという 話になってんだけど、だんだんそれのルールが破られていくという。 うん。そうじゃん。あの、 2期なんか1人でなんか回層に行った。 そう、そう、そう、そう。で、これ例えば特徴的なのはね、稽古の部屋に視察の人が入ってくるじゃん。 ああ、写真撮らした。そう、そう、そう。 で、ああいうので聞き手だった 2 期のある種の内面にも入り込んでくような 話になってくんですよね。それがね、要はそこのシーンで稽古の部屋に入ってくとやらピアノの音が流れ出すんですよね。 ああ、流れた。 うん。流れてるんですよ。流れ出して で、それでなんか2期が ああみたいな 感じになるんですよ。そのにあったと思うんだ。で、それがなんか悲鳴みたいなやあみたいなと重なってくんですね。これピアノの音が。 それが何かって思うと、それが次のシーン、長崎のシになって、 それがバイオリの音だったってわかるっていう。 それでそのピアノがバイオリになるというその入れ替わりで今度は 50年代昔の話になるっていうね。 だからこれって完全に要はその聞きて受けての関係じゃないじゃん。もう 記憶の入り方が ていうのでシフトしてるんですよね。うん。 で、これは何かって言うと、そのピアノの音というのは稽古のことじゃないですか。で、それがバイオリンの音と重なってく。で、そのバイオリンが出てきたシーンっていうのは例のあの子さんがうん。 うん。 私のせだったよ。とに入ってくんですけど、つまりこれはですね、越え子のね、要はその教え語とかあとはその、ま、あとは娘ですよ。うん。そういうものへの追い目があるわけでしょ、彼女は。 [音楽] だから後悔してるわけじゃん。私の人生これでよかったのって。 で、そういうその越え越え子のおいと それがだんだんその2期の 追いにも重なってくると、つまり姉に対してコンプレックスがあるわけですよね。彼女もね。 私はあのお姉さんのことはわかんなかったしみたいなこと言ってたわけでしょ。 はい。 そういうだからのピアノとバイオリンていうのでこの 2 者の私の人生これでかったのかっていうそのあるのコンプレックスみたいなものが うん。うん。うん。だんだ重なっていくという演出になってるんですよ。あれて。 はい。なるほどね。 うん。で、あそこであのバイオリンであの政治さんにね の前でこう涙を流すってシーンでちょっと向こうからこう西火が刺してくるという うん。のでちょっと眩しいってなるっていう。これがちょっとだから原爆っぽい うん。原爆の記憶と重ねてるわけだよね。完全にあれうん。 みたいなこととかで、ま、こういうですね、こういう非言語的としか言いようがないことで、この 2 人がだんだん重なっていってますよということを うん。うん。 やってるわけですよ。これこういうことを随所でやってるという で、これはこの2 期とお母さんの間だけじゃなくて、 これ他の人でもやってんですよ。これ うん。やってんの? 例えばこれね、あの、非常にこれも石川さんらしいですね。 普通だと思ってたらちょっとおましくなってくみたいなね。ちょっと怖くなってくみたいなちょっと色々あって、 なんかね、人物に だんだんだんだんこうにじり寄ってくみたいなね。う ん。うん。 ショットが特徴的なんですよ、この映画って。 うん。 うん。それが1 番僕はね、ああと思ったのは、あの、最後の方でね、 あの、さ子さんがえ子さんに対して自分の子供をこう溺れさせて殺してるっていうね、女性を見ちゃったって話でするシーンがあるでしょ。 あのシーンでだんだんだんだんだんだんこうさち子さんに寄ってくっていうね。向こう側向いてる。そう。あそこ怖いでしょ。 ホラーじゃないのみたいな。 なんだよ。ホラー で空もちょっとなんか禍々しい ね。異世界みたいになって。 そう、そう。 あれはなんかいうよりは実際になんか赤い布かなんかやってるらしいですけど、 そういう完全にホラーじゃねえのみたいな感じで。 うん。なんでそんなことすんの? これつまり聞き手が引き込まれる感になってくっていう。 にじり寄っててなんか同化してくような感じになってくっていう。うん。 そういう意図のショットだと思うんですね、あれて。 うん。で、これ実際にそこで子さんが語ってたことを 自身がつまり聞きてがやっちゃうっていうことになってくわけでしょ。後半その溺れさせちゃってっていう。 だから私はでもそうならないていうかもう幸せにないけないんだあるわ。 うん。 でも結局最後猫あやって ていうことになってそれはでしかもそれはま、自分自身がやったわけですよね。え子さんがやったわけですよ。そういうだから聞き手だと思って聞いてたことを今度は自分がやっちゃうっていう 実はどう化してってるんだっていう ことのあるの不責でもあるていうことなんですよね。だどんどんどんどん聞き手と語り手が重なり合ってくという ことなんですよ、これ。あとはそれこそ政治さんね、あの岐阜のあのと教え語の言い争いとかもそうですよ。 最初さ、あの2 人が降論してるとこで学校でさ、次引きなんだよね。 うん。 で、全然カット終わらない。 はい。はい。 で、こうだんだんだんだんそこにどんどんどんどんどんどん寄ってくんだよね、これカメラが。 ま、それをだからあの記憶だからね、あれ、 これ全体がこの越え子さんの記憶だから、ま、それを聞いてたわけですよね、え子さん。だからそういう聞き手がどんどんどんどんそこに寄ってっていう ことになって、で、その語り手、ま、だから 2 人だよねが話してることに、ま、結局これも自分に帰ってくるというか、自分がやっちゃってんだよ、それをっていうことにまたなってるんです。 後半っていうのは要はそのそこでさ、いや、先生時代は変わるんですよって 新しい時代の弱けなんですよ、これがってことが今度は最後の方でそれは越え越え子が [音楽] 2 期に言われることとまんま同じになってるっていう お母さん時代変わってるんだよっていうあれ 女性は目覚めなきゃ 全く同じやり取りが30 年の時を経てやってる だからその聞き手語り手の混濁っていうのをキャラクターでやってる 2 期とえ越え越子でもやってるしえ越え越子とさ子でもやってるし うんうんうん 政治とえ越え子でもやってるしってあ あはいはいは もういろんなとこでやってる。 うん。 主観と客観はもうぐっちゃぐちゃやもん。 そうそうそうそう。 ぐちゃぐちゃになっちゃうよね。 うん。で、つまりこういうことを色々やってるから、 え、最初ミステリーとしてじゃ、あの時代に何が起きたのかっていう 頭で見てた観客がだんだんあれ、この人もこの人でこの人もこの人なんじゃないのみたいな感じでなんかこう記憶の中の話だっていう。うんうん。 はいはいはい。 うん。主観の話なんだこれっていう感じに無意識的にこっちもなってくわけ。 ああ、なるほどね。 そういう仕掛けなんですよね。 ああ。え、なんかそのだから2 期の話で言うとそのなんか女性の運動とかのやつがあったじゃん。 あれはあの80 年代の中では結構その新しい時代感があるものだから うん。 それと50 年の長崎の新しい時代の訳けなんですよってのを書け合わせたかったからそのうん。 ああ、なるほどね。妊娠は 妊娠はだからその長崎の当時の子が妊娠してたわけでしょ。 そこ自分が重なるのよ、今度は。うん。ああ、なるほどね。 そう。で、この人も別に褒められた環境じゃないっていうね。 不倫はしてるしっていうこの私はこの人生でいいのかっていうのがあるわけですよ。彼女は彼女で。 はい。なるほどね。 そうそう。で、なんか記者としてもあんまズド飛ばず出してとかたりとかそういうのが限外に匂わせれてる。 はい。ちょっとね、私の人生これで終わっちゃうのかみたいなり感がね、 2期にもあるみたいな。 そう、そう。それによってこの話が被爆当事者に閉じてないっていう話になって。 確かに確かに。 そう、そう。被爆当事者を2 世が慰めるって話だけじゃないんだよ、これね。 2世も2 世でこの越え子さんが抱えてたような私の人生これで良かったのかっていうのを後の世代も抱えるよねっていう。はい。はい。うん。 で、それどんどんその継承されていくっていう もう1個構造のようになっていると そうそうそうそう色々あるんですよ。なんかこのいろんなとこにこれ反響してるぞっていうのね。 例えばあの恥っていう セリフがいっぱい出てくるんだね。 端は大事なんだろうなと思いましたね。 恥ずかしいと思わないのとか 言ったりとか恥ずかしいと思ってしょとかね。 言われたりとかね。つ声がね。うん。とかだからその恥という概念が いろんなとこでいろんな人がいろんな人に言うっていうね ことになってたりとかね。 ま、ま、えつ子だって現代でさ、なんか出会ったマザーにさ、なんか嘘言うじゃん。なんかあれも恥でしょ。だって 恥ずかしいからでしょ。 そう。で、それを2 期に問い詰められるんだよね。 そ、恥というセリフ1 つとって、もう現代でも過去でもいろんな人でもそれ反響してるわけですね。それはなんでかって言うと、つまりその私の人生って 恥ずかしいものなのかという、 そういうあるし内性的な問がこの話にあるよということを意識づけてんだよね、あれはね。 うん。で、そういうのがあって、あの、クライマックスになって うん。うん。 そういう今まで見てきたいんなイメージがこう 1つのを結ぶっていうねことになってく。 うん。それね、いろんなとこに本当にいろんなとこにあるんですよ。例えば最初にね、夫が新聞読んでて幼児が連続殺人で考察されてるという、ま、そこで要はその首を閉めて死ぬというモチフがもう匂わされてるわけよね。そこでね。あとはその黒ネクタイをね、ないぞ。黒ネクタイ。 はいはいはい。 いや、あるじゃん、ここに。それを越えツ子が探して結んであげるとかね。 あるいはマリがなんかどっか行っちゃって探すんだけど その時になんかこうロープみたいなのを持ってんじゃねえ子がねなんかしんないけどあと足に引っかかってたりロープみたいなそういうのがパッとこう入るっていうね でそれを思い返すと稽古のシーンって何だったかっていうことですよね つまり首を釣って死んでしまったという だからその彼女のトラウマみたいなものがいろんな今までの記憶の中にあるという ことなんですよね。 うん。 ま、あとはその最初の方で流れてた木箱がとか実はあれだったとかね。あと川向こうの女って何だったのっていう。それか今度は自分でしたとか、 つまりその客観的にあれ何だったとか、あれは何、あの人は何って思ってたものが自分だったっていう構図にどんどんどんどんってくってね、 記憶の中で。 その感じをもうとこでやってるっていうものでもやってるし。うん。 確かにね。 うん。小道具でもやって人でもやってみたいな取り方でもやってみたいな。 もうなんかすごいシャッターアイランドみたいな。 感じがしますよね。 後で見返したらこれはもうあいつだったからこうなんだよみたいな感じがするよね。 そう、そうな、そうなん、そうな。2 回目見てみると面白いかもしれないね。そういう意味でね。で、あるいはそのエス子さんだけじゃなくて、 エ子さんから見ればその女性の生き方とか、 この私の人生これでいいのかと、そういう話もあるんだけど、ま、もちろん被爆者としてもね。 うん。 だけどこの治さんにってれば女性のき方は関係ないけど 彼にとってで教師で 自分の教えてきたことでよかったのかとか そういうんなあの時代を生きてきた人っていうレイヤーにも縁してくわけです。うん。うん。うん。 で、それがさらにそれを聞いてる2 期にも広がって 引いては我々にも広がってくというはい。 だから、もう A子の個人のその悩みの話ってよりかはまずその女性っていう性別を超えたその政治とかそういう立場とかを超えた人にも、ま、同じ悩みあるよっていう感じで、まず横のレイヤーとして広がりがあって、で、さらにその時代のレイヤーとして盾のあれがあるってことでしょ? 80 年代にもそれはあるし、今後も続いていくんだろうなっていうのを予感させるみたいな。 そういうことですよ。 あ、ま、だからすごいカバーが広いってこと。 そう、そう、そう。だから1 人の女性の記憶の話だと思ってたら それがいろんなとこでつまり男も女も要はあの時代に生きた人はすごい大を迎えちゃったという人生全部変わっちゃったっていう時代だと そういう激道の時代に生きた人がどういう思いで生きてたんだろうっていうそこにちょっとこう意識がいくような話にもなってるし はいはいはい でそれを聞いて我々はそこにどう寄り添って 我々の現代にそれをどう照射するんだろうってそういう話にもなってくという これって要は今戦後80 年というね都年にこの映画を作る意義そのそのもでもあるは ですよ。うん。 で、どうやってそれを語り継いでってその記憶に寄り添っていくんのっていううんうん。 ことにも重なってくるっていう。 はい。はい。はい。 ま、だから冒頭で言ってくれたように全然アート映画すぎるアート映画じゃないじゃん、これ。別に [音楽] ちゃんとそのミステリーで何が起こったのみたいなね、エンタム的な切り口あるし、演技合線みたいな切り口もある。 あるよ。面白いよ。 で、それがなんかこうすげえ壮大な話になってくなみたいな。 うん。 すごい射程の話になってくるなみたいな。はい。はい。 この感じをつめるとうおってなるって。 なるほどね。 うん。 子さんがずっとこの自文自動してるってのは、 ま、要はその自己矛盾なんですよ、彼女の。 つまり、ま、彼女はずっと後悔してるわけよね。 うん。 結局イギリス渡って はい。はい。 ね、娘死なせちゃってるわけだから全然間違ってたじゃんっていうことなのよ。 回層の中では、ま、その後悔の表質が色々あるわけでね。そのロープのモチーフが映ったりとか。はい。はい。 だけどそれと同時に この記憶の中のさ子さんはめちゃくちゃ強いし うん。 昔のその長崎はすごいビットなんだよね。取り方もね。 はい。はい。はい。 年代にイギリスはずっと雨が降ってて暗いみたいな退避があるんだけど、つまり彼女に取ってみればその長崎ってのは決して別に暗い街じゃなかったと。 あは。 うん。つまりもうこっから立ち直っていくんだと。 復興というかむしろ時代の最先端を行くよみたいなそういう街でもあってっていう、 ま、そこが曲に達するイメージがあのピクニックのシーンだと思うんだけど、つまりさ子さんも一番あそこだけ光輝いて見えるし、 その山波の風景もそこで 1 番こう長崎っていいよねっていうものとして記憶され、回送されてるわけよ。 うん。うん。 確かにあのシーンラストカットでもパッて出てきて終わった。 そう、そう、そう。だから非常に調的なね、ショットなけで、つまりそれはめちゃくちゃ後悔を抱えて回送してるだけど、その思い出されるものは決してそれだけじゃないじゃんと。 うん。うん。 あの頃の私はちゃんとこう未来に希望を持ってたとね。アメリカに行けば、ま、それは実際イギリスだったわけだけど、 イギリスに行けばいい。うん。 人生変わるはずだと。 私が不幸になってなるもんかと。 はい。はい。はい。 いう力強さですよ。ま、それは必要さと裏表なんだけど でもそういうものがあったわけですよね。 うん。あったね。 だしその当時のいろんな人々も完全に今までのね価値観がもう否定されるような出来事があったけどその中でなんとかこうなかなか折り合いつけられながらでもいい人がいたんだっていうね、そういう実感もあるわけよ。 うん。 うん。ていうものとして長崎っていうものがなんか壊れちゃった街みたいな。そういうパブリックイメージじゃなくて そういうこう当時の人々のその記憶としてね、 いろんな多面性があったんだよ。あの長崎っていう。 うん。 そこはま、確かに国になっちゃって負けてっていうのがあってで私も被爆してそこで被差別がいっぱい描かれるわけじゃん。 でのでだからそれが辛くてイギリスに来たわけじゃん。 で、それででもそれが失敗しちゃったりとか じゃああの頃、あの夫と一緒にいればよかったのかとかそういうもう大魔になってんだね。色々ね。 そうね。 そういう複雑なレイヤーというかね。 うん。うん。うん。 複雑な思いのある町として長崎があるしこう語り直されるという話なんですよ。 うん。なるほどね。 うん。そこが僕はこの映画の 1番の肝だなと思うんですよね。 なるほどね。 うん。その結局この未来にね、 抱いてた希望ってのは、ま、結局過去の効果になっちゃうわけでしょ、今度は。また。 うん。そうね。ね。 でもそういうもんじゃんっていう。 つまりその人生ってのは結局その、未来に期待して それが今度は過去の後悔になって、でもそこでまた未来に期待して、それがまた過去の後悔になって、それの繰り返しじゃんっていう。はい。うん。 そういうかなり不縁変的な話もなってるし。 はい。はい。はい。 その時代ってのも変わってくんだよと。 そうだね。 それもう必然で、ま、もうれ得ないこと。 はい。はい。はい。 なんだけど、そういう中で人は引き裂かれてね、 それでも進んでくんだよと。 そういう話になってだからあの2 人が分裂したりしたりとか、政治さんというキャラクターが出てきたりとか 話になってくっていうで 80 年代になってもこう時代は変わってってるよという その気側の話にもなってくってのはそういう意味なんだね。 そうだね。 で、それを非常に映画的な、例えばこのドリーで寄ってくとかね。 はい。はい。 で、あの映画ってのは思い返す 2 時間を通して見たものをなんか思い返して混濁してくっていう体験も映画っぽいって思うんだよね、僕はね。 はあはあは。 つまり思い返した時にあれもこうだったかもって。それは記憶の思い返しと同じようなものじゃん。 まあね。細かい前後関係まで覚え出せないからね。 そう、そう、そう。で、それがなんかすごい最後に全体なものとなってくって体験がすごいだから合ってるわけですよ。この映画の内容とね。 だからそれは僕らがその当時の人の記憶みたいなね、客観じゃない主観をね、 衰体験するみたいな構図にもなってるわけ。うん。うん。 で、これはすごいね、原作のスピリッツを うん。 めちゃくちゃ本質的なスピリッツを抽出してると思うんですよね。 はい。はい。 つまりこれ誰が書いたかっていうと、ま、言うまでもなく石じゃないですか。で、彼はその 5 歳で、ま、イギリスに渡って、ま、ある種アイデンティティが 2つあるわけですよね。はい。 うん。で、希爆2でいうはいはいはい。 で、だからある種その2 期の立場でもあって、 越子さんの立場でもあるわけですよね。つまり、ま、確かにそのイギリスで長崎なんて、それはさ、外部から見たらさ、 破壊されちゃった街みたいなねイメージじゃない。だけどその当事者にとって見ればそれだけじゃないんだと。 うん。 むしろそのもう上昇のような街だった、え、ことでもあってそこのこう内感うん。 ていうのはもう完全に和石頃自身の 体験でもあるわけですよ。うん。ね、 ま、ご実際そうこと言ってんだけど、で、それがま、結局その石黒自身もそうだし、 あとこれを見てる我々ね、 つまりその先日を経験してない世代がこれを見た時にこの長崎ってものがどう映るかというと、なんかこれもアイデンティティが分裂してるというか、つまりその日本だから原爆の記憶っていうのは切り離せないんだけど、 でもそれを当時経験してないから ていうこの自己矛循環というかね、そこに同化しきれないという、 いろんなこう複雑の思いがあるわけですよ。そういうものとも重てくるっていう、 その2 期っていうポジションでね、それがね。 うん。 いや、でもなんかさ、それで言うとね、あの、この監督の方も、ま、もちろん経験してないじゃないですか、その時のね。だから若い世代ってことでしょ。 [音楽] そうだね。 で、その若い世代がこれ作ったところでやっぱ俺が若いなって感じたのがすごい冒頭のそのセレモニーがさ、流れていくじゃん。 長崎の写真が流れてるところがなんかすごい若いなって感じがした。普通の原爆とか扱った映画でこの曲入れるみたいな 80年代のこの曲をみたいな。そう。 まずだからこれはあの監督にしかできないなんか描き方だなって思うのとでもそれが今話を聞いてるとやっぱりそのあの人自身その原爆を実際経験してないからああいう描い方ができたのかなと思うんですよね。 それそう うん。で、だからそれが石黒さんが感じてた長崎の持つその悲しい部分とでも実はこういういい部分もパッションに道溢れたとこだったんじゃねみたいなとことなんか重なってね。 うん。そう。まさにそうなんですよ。 これをだから思い返した時に あのなんかこうちょっとこう今日疲れるようなね。 うん。 あ、こんな始まり方すんの? うん。思ったよ。 うん。あれがちょっとそういう意味をいて響いてくるという。 ああ。確かにね。 つまり長崎の決して悲惨なだけじゃなかった記憶というか、 当時の人は被爆差別みたいなのもあったし、だけどその中でもう生き抜いてやるんだっていうものもあったしっていう はいはい。 そういうものとして出てきてたんだよねっていうのが後になってわかるっていう。 でもそういう切り口であの長崎の写真を提示できたのはやっぱりその戦号世代ある程度距離がある世代が より沿ったからあれができた。 はあ。はあ。はい。 そうね。まあ、なんかあれはあんま見たことなくてすごい特徴的だなと思いましたね。すごい。 で、それがま、その最後のあの要は遠い山並をね うん。 見る2 人のイメージで終わるっていうのと重なっていくという うん。そうね。 ことなんです。もうだからあの2 人が本当象徴なんだよね。 はい。はい。 長崎の2面星でもあるし、それは はいはいはいはい。 でも2 人は前を向いてここまで繋がってきたんだよという症状的なラストショットで終わるという うん。まあね ことなんですよ。で、あれがセレモニーがまた流れ。 それは2 期がイヤホンで聞いてる曲として最後流れて終わるっていう。うん。うん。そうね。だ、あの、あのカットがあったから俺なんかこの A がなんだろうなっていうのがなんとか分かったから。その当時 見終わった瞬間にね。 うん。その遠い山波の光っていうタイトルが最後にこうこれをまた思い返される形で響いてくるというかね。うん。うん。 つまりあの2 人が見てたらそれは長崎の遠山波のイメージでもあるし。なるほどね。 うん。そしてその山波というのはその連面といろんな山がこう重なっていくわけですよね。 はい。 それはだから過去から現代にこうされてくる何かはいはいはい。 でもあるし はいはいはい。 で、そこに光が刺すというこれ弱けですよっていう セリフも叶ってくる。 だから結局その現代塾に戻ってもやっぱりそのね、あの新しいその女性の生き方というか 家族どうすんのとかさ言われるわけじゃん。 いやいやでもお母さん変わってんだよ時代はみたいなねことがあるわけでしょ。こうやってどんどん時代は継承されてくんだと。 [音楽] うん。 で、それが引いては我に繋がってるんだけど、そうやって人はいんなこう価値観に分断されて ね、自己無を抱えながら繋がってきたんだよという はいはいはい。 そういう話になってく。 うん。そうだね。 で、そういうことが中崎っていうものをね、捉え直すという 戦後世代の力によって捉え直すっていう 営波にも繋がってくるわけで すごくないっていう。 うん。 すごくないっていう。 聞いてるとすごいね。 そうね。 ま、だからこういう映画だというちょっとにおいてもう 1 回見てみるとああってなるかもしれないですよという 繋がりたかったな俺もいやもうね本当やだからさとねあのえ子さんがピアノを引き合ってさ 2人が語り合うとこが1 番のやっぱグっと来てほしいとこじゃないですよ。きっと俺そこグっとできてないんですよ。 なんでかって言うとねもう明らかでもういろんなことやりすぎちゃってんのね、あの時に。 はい。 だからその子とその子が同人物だとあそこを明しするとじゃ。 うん。 それの合間になんか2 期のピアノやっちゃうから俺全然感動できてなくてそこなんかもうそっちどじゃない。 脳の処理がね追いついてない。そういうちょっと情報量あるよね。これね、 それをね、記憶のこうごった感というかね、うわ、こんな感じになってくんだっていうとこにシンクロできると うん。 むしろそれがいいみたいなことになるんですけどうん。 だって俺はあの時点で思ってたことはええつかなんかちょ怖いんだけどね。 え、怖、顔怖みたいな。あれ越え越え子やばいやつなんじゃないの?みたいなのを思ってる時になんか現代の方でなんか 2 人でピアノ引き合ってるからなんかちょっと帰りしちゃって俺なんかうん。ま ね、これはでもね、ミステリーというかなんか一種なんか夢というか 記憶の本当コンとしてみないと多分なんか本当に脳で処理しようとすると本当にそうなっちゃうと思う。 なっちゃう。 うん。 むずい。 自系列とかいいから これとこうしてこれとこうしてああみたいな この感じが実はすごい大事だよっていう ことなんですよね。それが記憶というものだし。うん。 結構なかなか難しいかもしれないですけれども。 むずいよ、これは。 うん。まあね、でもやっぱりね、今年 1580年で 数石黒というね、2 つのアイデンティティを持つ原作者の原作を後の世代 はい。はい。 またこれも2 つのアイデンティティを持ってるようなね、その長崎に対してね、 そういう世代が映像化するからこそ成り立った長崎というものの記憶の伝承の仕方というか。 うん。 見事にマッチしてたね。 そう、そう、そう、そう。 この監督じゃないとできなかったと。 それを映画でやるからこそという うん。 なんかその結局そのね、いろんな自性とか自系列とかあと人物とか あと死体虐待とか そういうものがなんか全部混ぜ一体になって観客の中になんか像を結んでくと 2 時間の中で はいはいはいはい その体験そのものが自己矛盾を抱えて生きてくしかないとか あとはそのうれよくあの頃の長崎の記憶を どうやってそこに折り合いつけるんのかとかそこどうやって共鳴するんだ後の世代がとかそういうものと全部アレゴリーというかね重なっていくわけですよ。 が僕はして見たことないなと思いましたね、こういうのね。 うん。まあ、確かに見たことはなかったかもしれない。 そう、そう、そう。まあ、これはすごい映画なんじゃないのっていうか、 まあね、 ま、戦後80年以降ね。 うん。 語られてく映画になるんじゃないのかなと僕は思いましたけどね。 確かに。なるほどね。 という感じで遠い山波の光の感想でございました。 はい。 聞いてくださった皆さんありがとうございました。 はい。ありがとうございました。

映画大好き兄弟によるネタバレ感想ラジオ。今回語るのは、カズオ・イシグロの長編小説デビュー作を映画化した『遠い山なみの光』。『ある男』の石川慶監督と、広瀬すず・二階堂ふみが主演を務める本作。演技合戦が凄まじいだけでなく、ミステリーと思いきやどんどん未知の映画体験に? なぜこのアプローチをとったのか? 今この映画が生まれた意義は? 今回も深掘って語ります。「戦後80年以降も残る映画!」

※このラジオは2025/9/6にXのスペースで配信したものです。

兄:しの( https://twitter.com/mouse15278 )
弟:ばんぼ( https://twitter.com/babonbobonbo )

0:00 戦後映画の傑作
2:18 凄まじい演技合戦の意味
8:27 この映画のテーマは何か?
13:32 聞き手と語り手が混濁する構成
20:44 映画に張り巡らされた仕掛け
24:54 時代の変化と自己矛盾の話
28:28 あの原作を戦後世代が映画化した意味
31:12 ラストカットとタイトルの意味
32:56 情報量の多い映画ではある
34:09 総括:更に後の世代にも継承され得る映画

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#二階堂ふみ
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#遠い山なみの光

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